ク子もまたこの足に迷って死んだ。或夜、裏長屋から一本の蛸の足を盗んで帰る途中、長屋の井戸の屋根が腐っていたため、踏み外《は》ずして落ち込んでしまった。その時彼女は臨月だった。
そのもの音に驚いた車屋のAが寒いのに飛び出して、つるべによって助け上げようとしている時、四、五日前から喧嘩《けんか》していた仲仕《なかし》の細君がまた飛び出して来た、そこで互に感じが悪いというので二人とも家へ引込んでしまったために、その翌朝フク子は蛸の足と共に浮き上っていた。怖《おそ》るべきは足の誘惑である。
もっさりする漫談
関西には形容すべき言葉にして、特に訳のわからない複雑な感情と意味を含む処のものがかなりあるようだ。例えばややこしい[#「ややこしい」に傍点]とか、ぞけている[#「ぞけている」に傍点]、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]、しんどい[#「しんどい」に傍点]、もっさりしている[#「もっさりしている」に傍点]、はでな事[#「はでな事」に傍点]とかいう風な言葉である。勿論《もちろん》日本の標準語の中へは這入《はい》りそうにもない地方的なものではあるが、慣れているわれわれの中ではそれらの一語で何もかもがいいつくせるので、大変便利だから変だとは思いながらもつい使ってしまうのである。
ややこしいという事を東京流に翻訳して見ると、この語の中に含む真のややこしさを表すだけの適当な言葉が見出せないのである。その意味は複雑というだけでもなく、ごたごたしているというだけのものでもない。西だか東だかあれかこれか、ほしいのか厭《いや》なのか、甚《はなは》だもつれている処の、こんがらがった意味があるのである。まだその他あの男女の間が頗《すこぶ》るややこしい[#「ややこしい」に傍点]とかこの品物が本ものか偽物か甚だややこしいとかいう事もいえるのである。怪しげな男の事をややこしい男ともいう。あるいは六つかしき事にも用い、恋愛が破れかかる時にもややこしい[#「ややこしい」に傍点]と称し、成立しかかる時にもややこしい[#「ややこしい」に傍点]という。あるいはいいのか拙《まず》いのかわからぬが多少下手に近い絵の前へ立った時、ややこしい絵だとも評するし、髭面《ひげづら》の気ぶしょうな男の顔を見てややこしい[#「ややこしい」に傍点]顔してますといったりする。
ぞける[#「ぞける」に傍点]、というのは、もう月経も閉止する時分であるにかかわらず、急に何を感じてか、赤い襟《えり》をかけ出したり、急に素晴らしいネクタイをつけたり、禿頭《はげあたま》へ香水をふりかけて見たりし出した時に用うべき言葉である。近頃彼は急にぞけ出した[#「ぞけ出した」に傍点]とかいう。
しんどい[#「しんどい」に傍点]とは、全くくたびれたという上にもっとなまぬるい複雑性が入り込んでいる処の、もっと軽い意味の、そしてどこかに深刻味のある、微妙なくたびれの心もちであり、一種のびやかな漫然としたつかれ心地を表すためにああしんど[#「ああしんど」に傍点]とかしんどうてたまらぬ[#「しんどうてたまらぬ」に傍点]とかいう、これも東京ではどんな言葉でいい表していいか私には見当がつき兼ねる。
もっさりする[#「もっさりする」に傍点]という言葉は、何んでも本筋のものでなく田舎風で野暮《やぼ》でそのくせ気取っている処の、しかもしゃれてはいない処の、上等でもなく、美しくもない、多少きざに見える処の、何かゴタゴタして垢抜《あかぬ》けのしないものを指《さ》してもっさり[#「もっさり」に傍点]しているという。
もっさりしたマチス[#「もっさりしたマチス」に傍点]といえば素描の力と認識不足のものであり、省略すべき処を略せず、拾うべき処を取落してしまった処の、垢じみてすっきりしない処のマチスかぶれの絵という事である。丹波篠山《たんばささやま》生れの鴈治郎《がんじろう》と熊本県人の羽左衛門《うざえもん》もまた、もっさりした種類と見ていい。
もっさりしたヴラマンクといえば、大体右と同じ傾向のもので即ちヴラマンクに似てはいるが本当のヴラマンクがその絵を見たら恐縮して風邪《かぜ》を引くであろう処のどす黒赤き拙劣な絵という事になる。その他もっさりしたシャガール、ボンナアル、ブラック等この言葉を上へ戴《いただ》くいろいろのものは現代日本には殊の外多いようだから特に重宝な言葉であるといっていい。
しかしながら、本当の田舎の、さも田舎らしくある処のものに対しては、このもっさり[#「もっさり」に傍点]という言葉はあて嵌《はま》らない、田舎で本当にさも田舎らしい女や男や料理に出会った時、それをもっさりとはいい得ない。それは、田舎の本筋のものだからかえってすっきりとしているのである。要するに田舎ものが、第一流のしゃれものを真似《
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