ちょうど実写もののフィルムを逆に回転したのである。
 そこで先日飲み込んでおいた風景を尻から悉く吐き出してしまったことになって私は初めて爽快を感じた。
 絵を描くことに油が乗っている時には妙に文章が書けなくなる。文章に興味を感じる時絵を描く神経は鈍る。病院にも内科外科婦人科の別ある如く、その係りがちがっているのだと思われる。
 絵の仕事で夢中になっている時には人との約束や義理人情を多少踏み潰してもかなり平気でいられる。また他人も了解してうるさい用件を持ち込まない傾向もある。あんな男に頼んでも駄目だと見当をつけるのだろう。
 絵を描く方の神経が鈍っている時に限って手紙が書けたり他人のことが気にかかったりする。いらない返事まで出してみたりしてみそをつけたり、いらない世話をさされたりする。よその人情が気にかかって捨てては[#「捨てては」は底本では「捨てて」]おけなくなるのだ。他人もついそれにつけ込んで来る。やはり絵描きは多少不人情に見えてもいいから、少しの隙も見せない方がいいと思う。

 世話といえば他人の絵を批評したり、見てやったり、見せられたり、することは危険な仕事である。いいものは日に何十枚観賞しても結構だが、自分の力以下の絵を日に一枚ずつ見てさえも地獄へ陥ちて行く気がして堪らない、すでに私は地獄行きの切符を買って帽子のリボンへはさんでいるようだ。[#底本には、続く改行と1行空きはなし]

 思う仕事が思うように行かない時など酒を飲むとか、やけ糞に煙草を一箱のみつくすとか出来る人は幸福だ。酒も煙草ものめない私は時に重たい椅子を床へ投げつけてみることがある。思ったより力があるんだなと友人はそれを聞いて感心した。
 煙草はまったくいいものだ、ちょっと一服することによって世界がはなはだ新鮮になる。他人と話をしている時煙草は両人の顔と顔との[#「顔との」は底本では「顔の」]間へよろしき煙幕を張る、それを通して相手の顔を眺めていることは、大変のびやかで話もらくに出来るようだ。私が医者から無理にやめさされた時、一番辛かったことは、話相手の顔があまりはっきりと真正面に見えることだった。それから町を歩くと煙草屋が多過ぎることであった。一町内に必ず一つ位はあの赤い小判形の中のたばこという黒い字が目につくのであった。完全に煙草を忘れるのに一年位はかかった。煙草を忘れてしまうと同時に町からは煙草屋が全部影を消してしまった。看板も目につかなくなった。
 煙草をやめてから五、六年になる近頃、妙にまた煙草屋が目につき出し、絵で疲れた時、煙草のことを考え、客に対してちょっと一本下さいと無心をいってみたりすることがある。これはいけないと自らを戒めているが、心の底のむすび目が多少ゆるんでいるような気がするのである。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和二年八月)

   秋の顔

 秋になって、私は人間の顔が紅葉したのを見たことはない。しかし木の葉が凋落する如くわれわれの毛髪は多少脱落はするようである。ことに貧弱ながらも生きている私などは夏から秋へのつぎ目の季節を嫌に思う。折角大切にしていた皮膚の脂気と、貧しくもめぐっていた私の血液が、腹の奥底へどんどんと逃げ去って行く心地がする。何か冷気を含む秋の風は下腹をしくしくと悩ます。ことに時雨と木枯しは情ない。
 しかしながら、健康で大丈夫な他人は秋風によって食慾を増し、馬も、人も、女も、肥太るという話である。羨むべきことである。

 最近十日あまり私は上京していて、帰ってみて驚いたことには、私の大切にしていた銀が(銀は真白な猫である)今までは夏痩して細長くて、猫として禁物の瓜実顔であったものが、たった十日あまりの不在の間にその重さを著しく加え、顔はまるまるとした丸ぼちゃ型に変化してしまっていたことであった。
 してみると、秋のきざしが、ほのかに現れただけで、猫は丸ぼちゃとなり、私の血は腹の中へもぐり込み、血の気を失うことは確かである。猫と私との変化はちょっと相反している如く見えるが、猫の丸くなるのはもって冬への用心であり、私は寒気を覚えて、何か重ね着をして丸くなろうと考えるわけである。

 奥へ逃げ去るのは私の血液ばかりでない。この半月ほどの季節の変化によって、私の家の近くの草原の凹みや古池に溜っていた水という水はことごとく地中深く吸い込まれてしまい、草原のじとじとした湿りが乾燥し、私の家の井戸水のかさが減じてしまうのが毎年初秋における常例である。そして次の初夏のころまで草原と池は底を現しているのである。すると近くの人々がその凹みを塵芥の捨場と心得て、ブリキの空箱などが山と積まれる。その不潔な山が春から夏への季節には再びなみなみと湧き上がる水の底へ沈んでいきその上を蛙や赤腹が泳ぎ廻るのである。地球の地下水を私は人間
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