私はそれに応じての私の身を置くに適当な何かを以て飾り立て、ぼろぎれを張り廻《めぐら》し、工夫を凝《こら》して心もちよく住んで見せるだけの自信はあると思っている。要するに乞食性だといえばいえる。
衣類、持ちものにしても、私の好みの日本服、好みの洋服、好みの外套《がいとう》、好みの帽子、好みの宝石、好みの時計、好みの自動車といいかけると限りなく私の注文は心の奥に控えている。
だがしかし、私は万事を自分の心のままに出来得ないものならば、最早や何一つとして注文して見る必要はないと考えている。だから、手当り次第の勝手気ままの不統一で通す事にしている。一度パリで買って私の気に入ったパンタロンは、よそ行きも常も婚礼も朝から晩まで着通して、今なお着用しているがさすがに、縞《しま》が磨滅して来た。惜しいものである。
終日、洋服で通すという不粋な事は私だって本当は好きだといえないが、私は洋服を意地からでも着て暮す。
勿論、私の今の家には座るべき座敷がないのだから、和服では裾《すそ》が寒くて堪《たま》らない上に、私のやせぎすは、腹が内側へ凹《へこ》んでいるために、日に幾度ともなく、帯を締め直す煩《はん》に堪えない事もあるのである。
私がもし、急に明日から金閣寺で暮すという身分にでもなったとしたら、私は直ちにパンタロンは紙屑屋へ売飛ばして衣冠束帯で身を固めるであろう。
先ず花の下には花の下の味があり、鉄管の中にはまた格別の世界があるのに違いない。何に限らず住み馴れたらまたなつかしい故郷となるものだろうと思う。
今の処、何んといっても私が思う存分の勝手気ままを遠慮なく振舞い得る場所はただ一枚のカンヴァスの上の仕事だけである、ここでは万事をあきらめる必要がない。私の慾望のありだけをつくす事が許されているのだといっていいと思う。
画家というものがどんな辛《つら》い目に会っても、悪縁の如く絵をあきらめ得ないのも無理のない事かも知れない。
芝居見物
大阪の芝居見物は何かものを食べながら、話しながら、飲みながら、その間に時々舞台を見ているようである。もの見遊山というのは芝居見物のことだと私は子供の時から思っていた。
私の父は芝居、遊芸道楽に関することは何から何まで好きであったから、私は人間の心もちも出来ていない幼少の時分から芝居へはしばしば出入りした。そして何かたべながら
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