ヤであることは私たちを怖れさせた。やがてその人は病室へ送られたが、マルセイユへ上陸出来ず、彼はロンドンまで行くことになった。私は彼からハンカチーフを贈られ私は寝衣の着換えを彼へ進上して別れたことがあった。
 私は多くの蚊よりもたった一匹の蚊、一匹の蚤が寝室を荒らすのを怖れる。彼らはまったく私を不眠症にしてしまう。多くの蚊、多数の蚤に対しては度胸がすわってしまうものである。
 今自分の家には畳がなく、ベッドによって暮しているために最近蚤の味を忘れてしまっていたが過日、ある旅館で私は近頃珍しく蚤が腰のあたりを噛むのを感じて眠れなかった。
 彼らは馴染むと平気となるが、彼らを怖れると重大なものとなって来る。大体近代の文化は病院の手術室の如く、白く明るくガラス張りの中へわれわれ人間の世界を追い込めようとする傾きがある。そしてわれわれは蝿、蚤、蚊、その他あらゆる黴菌から遠ざかり、まったく虫なき世界、蚊なき世界、黴菌なき世界でただ一人人間が完全に清潔に暮すことが出来ることになるかも知れない。その代りその時は、たった一匹の蚤に食べられても人間は殺されてしまうかも知れない。とは思うものの今の時代、われわれの身辺にはなるべく蚊、蚤、蝿はいてくれない方が勝手ながら幸いである。

   嫌い

 嫌いといえば、私はかつて蜘蛛という随筆を書いたことがある。如何に私がこの世の中で嫌いだということはそれを読んだ人は知ってくれる筈だ。
 今や再び嫌いについて考えてみるに、やはりなんといっても私には蜘蛛ほど嫌いなものはないようである。まったく私は蜘蛛だけは胸がドキドキする位の嫌いさである。
 この嫌な蜘蛛にもたくさんの種類があるが、私の一番怖ろしく思う種類のものは、その足を拡げると直径四、五寸から五、六寸にいたるものである。胴体がドス黒くて、太くて長い足をノソリノソリと動かすところ、私はとうてい正視するに忍びないのである。情けないことにはこの蜘蛛は多く室内にいて天井や、壁や便所の中を歩き廻るのだから堪らない。いわば同居しているのだから、私にとっては生涯の苦の種だ。
 この蜘蛛は主として関西方面に多く、ことに温かい国に多いのだ。紀州や四国辺などには随分どっさりいるらしい。

 私がある夏、伊予の道後温泉で高浜虚子氏や朝日の大道鍋平君などとともに四、五日滞在したことがあった。ところがその宿にこの大蜘蛛
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