ま》き散らしてしまったのであった。二、三十匹は確かにいたはずだ。
 その夜、彼らは一斉に、元気に、鳴き出した。
 すると、肝腎の鈴虫や、朝すずの声は蹴落《けおと》されてしまった上、前栽は完全に空家の感じを出してしまった。でも私は、内心かなり得意なつもりで寝たものだ。ところへ父が帰って来た。そしてなぜこう一時に蟋蟀が鳴き出したのかといって大そう驚いた。母も察する処、楢重《ならしげ》の所業だとにらんだらしい。多分昼の間に逃がしたんだすやろ[#「多分昼の間に逃がしたんだすやろ」に傍点]といった。私は忽《たちま》ち恐縮を感じたが、もう如何《いか》んともする術《すべ》はなかった。仕方がないので寝たふりをしていると、父は一人で庭へカンテラを持ち出して、石崖の間を狙《ねら》っているのだ。弱った事になって来たと思っていると果して、私はゆり起された。楢重、ちょっと来いお前やろ、さあこの虫を皆|退治《たいじ》てしまえといい渡された。ねむい眼で石崖の穴を覗いて見たが何も見えなかったが、なるほど、合唱隊は随分騒いでいる。
 私はそれからおおよそ一週間というもの、毎晩の如く石崖の前へ立たせられた。私は棒を握ってカンテラの火で虫を呼びよせて見た。そして石崖の間に私の愛する彼らのツルツル頭を発見すると同時に、私は棒でたたき潰《つぶ》さねばならなかった。
 だが、このビルディングの奥深く這入《はい》り込んだ蟋蟀は容易に出て来てはくれなかった。喧《やか》ましゅうて寝られんやないか[#「ましゅうて寝られんやないか」に傍点]と父が怒る度《た》びに、私は全く、蟋蟀が自殺をしてくれたらいいと思った。結局、石崖を取毀《とりこぼ》たない限りは完全な退治は出来難い事になってしまった。
 私は、以来、蟋蟀の声を聴く度びにその時の情なさを思い出す。そしてその頃の堺筋の情景を思い出す。あの家も既に売払ってから十年近くなる。今は何かハイカラな洋館と化けてしまっている。勿論、あの前栽も石崖もなくなったであろう。しかし、あの蟋蟀の子孫は、まだ、裏の下水のあたりで鳴いているにちがいないと思う。

   迷惑なる奇蹟

 私は常に静物を描くために野菜や果物を眺め、あるいは人間の顔や裸女を観て暮している。それでは野菜や美人の選択はよほど上手かというと、案外うまくないように思う。日本一の美人は誰ですかと聞かれたら早速に返事は出来ない
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