間は全体として見て置く方が完全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。
大和の記憶
五月になると、大和の長谷寺には牡丹の花が咲く。常は寂しい町であるが、この季節になると小料理屋が軒を並べ、だるまという女が軒に立ち、真昼の三時でさえもわれわれを誘うのである。初夏の陽光に照されただるまの化粧と、牡丹と、山門の際でたべたきのめでんがくの味を私は今に忘れ得ない。そしてそれらが何よりも大和を大和らしく私に感ぜしめ、五月を五月らしく思わしめるものである。
去年のこと
私は去年の秋、一種の神経的な苦しい病気をした。それは心臓の活動が一分間に数回も休止するというすこぶる不安な病気であった。医者にそのくるしみを訴えても、本当によくのみ込めないらしかった。
「なるほど、そう、はあ」
という位の事務的な同情をするだけであった。そして決して死ぬものでないといった。
死なないことが確かであっても、苦しいことには相違はなかった。心臓が停止するたびに、私はまったく死と生の間をうろうろするのであった。
もっとも悪い時は寝ていたものであるが、多少いい時には用足し位に出あるいたものだ。
途中でふと停滞が始まると、私は直ぐタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を呼んだ。そして自らの脈拍を数えながら走るのであった。タキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]の窓から死生の間にゆらゆらと見える街景こそ羨ましく美しいものであった。ことに女のパラソルの色はその美しさを数倍に見せた。
ある時などあまりの苦しさからタキシー[#「タキシー」は底本では「タクシー」]を捨てるに忍びず、とうとう阪神国道を芦屋まで走らせてしまった。そして私の家を見るに及んで私の心臓は安らかに動き出したのであった。
今大変だった、死にかかった。といってみたが、もう慣れ切っている細君は医者と同じ顔をしながら自動車に乗りたかったのでしょうといった。私は随分いまいましかったが、考えてみると多少その傾向もないとはいえなかった。
M夫人は私と同じ病気をした人だったことを思いだしたのでこの事を話してみた。
すると夫人はこの病気をよく了解してくれる人が出来たといって大変よろこんだ。そして今度また停滞が起こったらすぐ電話をかけなさい。わたし同情しに行ってあげるといってくれた。
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