介すべき高砂屋があり、高砂屋によって市価が生み出され、完全に商業化された組織があって、しかもなお神様は貧乏を常識としているのだが、それらの組織がなく、完全なる高砂屋なく、愛好家と神様との直接行動であっては、まったくもって神様も努力を要することである。

 ある愛好家は、絵は欲しいと思っても展覧会で名を出して買うことを怖れるという話を聞いたことがあった。それは誰それは油絵の理解者であり、金があると伝わると、八百よろずの神々がその一家へ参集してくるというのだ。
 さて、これが高砂屋の参集ならば片っぱしから謝絶しても失礼ではないが、何しろ皆神経を鋭がらせた、芸術的神様の集まりである。失礼にわたってはならない。なかなか以てやりにくいという。しかしながらケチな愛好家でもある。

 しかし、目下東京に二、三の高砂屋が現れて相当の功績を挙げている様子だと聞くが、まだ画界全般にわたっては、なんらの勢力を持たない小さな存在に過ぎない。この、組織不備の間にあって、つい起こりやすいのはいかさま的高砂屋である。資本なくて善人の神様を油揚げか何かで欺しておき、絵はほしいがどこで何を買ったらよいのか、不案内という愛好家や、少しも油絵などほしいとも思わない金持ちの応接室へ無理矢理に捻じ込むものがあったり、作品を持ち逃げしたりする高砂屋もあるらしい。

 とかく色男には金と力が不足していると古人は嘆じた如く、本当の現代油絵の理解者達にも金不足の階級者がことの外多い。展覧会を一年のうちに何回か眺めておけば、日本現代の油絵からフランス現代にいたるまでことごとく安値に観賞し尽すことが出来る。何も好んでその一枚を家へ持ち帰る必要あらんやといえるだろう。しかしながら時たまそのうちの一枚を買って帰りたいと思って会場を漫歩したとしたら、あの無数にぎっしりと並んだ絵のさてどれがいいのか、悪いのか、われわれの如く毎日絵の世界に暮しているものでもちょっと見当がつきかねるだろうと思う。腹の虫が収まっている時は皆よく見えたり腹が斜めである時は何もかもことごとく汚なく見えたりする。まァ名を知っている画家の描いたものは何となくよく見え、よく了解も出来たりする。知らない人の作品はなかなか記憶へ入って来るものではない。
 時には雑誌や新聞の展覧会評の切抜きを道案内書として、展覧会を眺めて廻る忠実なる鑑賞家も大阪の二科展会場等で時
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