らしいとか、あるいは線が美しいとか、何とか勝手に思ってくれればそれでよいので別段切腹に前後の解説をつける必要はない。観者が何と感じてくれてもそれは勝手であって画家の仕事はそれですんで行く。
ところで文章の場合では、前後の関係もなくただ唐突に切腹したと書いてみただけでは、一体何が切腹したのかわからない。も少し詳しい説明がないと合点がいかない。一体誰がどんな顔をして、どんな原因からどこで腹を切ったのか、そしてそれからそのあとはどうなったか、由良之助は臨終の間に合ったかどうかということまで気にかかって来る。随分うるさく説明してようやく切腹が多少明瞭になってくるのである。
切腹を一枚の絵で片づけることに馴れている私達の神経ではまったく原因、道筋、苦労、結果等を洩れなく整えて説明したり、穿鑿したりする文章の仕事は随分骨が折れることである。時には神経が衰弱するおそれさえ伴うように思えて堪らない。
自分で文章をかくこともかなり辛いが他人のものを読むこともかなり辛い。私はまず短いものなら何とかして読むこともあるが、一冊とまとまった書物はどうしても読み得ない。したがって他人の創作なども殆ど読んだことがない。
私は私の親しい小説家の小説でさえ読んだことがなかったりして、時にははなはだきまりのよくないことに出会うことさえしばしばある。
何しろ画家は一目で観賞することにのみ馴れ切っている。まったくどんな大作でも一寸[#「一寸」は底本では「ちょっと」]四角のミニアチュールでも要するに一目でわかる。展覧会で二千点の絵を鑑別するのに三日間を要するだけである。もし二千巻の論文を鑑査することであったら、それにはどんな方法があるのか、私には想像もつかない。怖ろしいことだと考えられる。
その点、活動写真は大変われわれにとって便利なものだと思う。絵の連続であって文章の代用にもならないことはない。最近私は知らぬ間に、かなりの活動写真愛好家となりつつあるようだ。しかしそれはよくよくいいものでない限りは往来を散歩している方が幸福ではあるけれども。
2
私は子供の時分から退屈をすると、よく戸棚やひき出しや本箱を掃除する癖がある、そして古めかしい煙管のがんくびや昔のかんざしの玉、古物の箱などを探し出して悦ぶのだ。時には思わぬ掘り出しものをすることがある。
近頃でも私は退屈すると物置へ入っ
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