ったと思う。しかしその便利なものは直ちに用いるところの勇気は称揚すべきである。
 ともかくも私はいつも新時代のいの一番を試み相勤める人達の勇気に対してかなりの尊敬を払っている。どうせ最初は不馴れと勝手のわからぬおかしみとがあり、笑われるにきまっている。にもかかわらず時代の雰囲気へ真先に進みたいという愛すべき勇気を私は称揚して差し支えなかろうと思う。まったく新しき趣味、新しき雰囲気、新しい色彩、新しい考えは流感における空気伝染の如くいつの間にか隅々まで拡がっている。
 アッパッパから足を出している少女が大阪だけかと思うと、神戸にも京都にも東京にもある。おそらく仙台にも福岡にもあることだろう。誰が命令したというわけでもない。ただ流感の如く拡がってしまうのである。そして世界は何かしら動いて行くところが面白いといえば[#「いえば」は底本にはなし]いえる。
 私はとにかく新時代の後からおそるおそるぞろぞろと追従して行くアッパッパ連と急先陣を承るところのモダンガールにすこぶる興味を持つ。
[#地から1字上げ](「みづゑ」昭和三年十月)

   瀧

 あまり熱を発散しない火や光、あるいは透明体を眺めることはすこぶる、いい[#「いい」は底本にはなし]避暑となるものである。私は青いガラス玉を透して電燈の光を覗くのが好きだ。
 とても美しく涼しそうな極楽世界を眺めることが出来る。蛍や人魂が夏に飛んでくるのも、西瓜やトコロ天が店さきに並ぶのもみな、半透明の誘惑であり結構な避暑のモティフである。瀧は水であってなおかつ光を兼ねている。瀧を遠望すると活動の映写口から出る白光の感じがする。そしてガラス玉であって水晶でもある。涼しいわけだと私はおもう。

   池

 私はあの東京の大地震の時、幸いにも恵まれた二個のドーナッツ[#「ドーナッツ」は底本では「ドーナツ」]を大切に抱いて、やっと一夜をすごしたことがあった。しかしその時、人間の世界には水分が一滴もなくなっていた。それで折角のうれしいドーナッツ[#「ドーナッツ」は底本では「ドーナツ」]も、乾いた海綿の如く口中に充満して私は悲しかった。以来私は一杯の水、一滴の雨水を結構と思うようになった。
 昔から山水というよい言葉がある。山だけの風景は震災のドーナッツ[#「ドーナッツ」は底本では「ドーナツ」]である。私は昔から、奈良の風景を愛する。ただ惜
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