か。「魂は聖霊の宮なり。」といふのはかやうな気持をいふのではあるまいか。その公けな部分を悪しざまに言ふことは、自分の持物を罵るやうにはできない気がする。「聖霊に対する罪」といふやうな気がする。「私たちの魂は悪のみなり」と宣べる時、私たちは他人のもの、造り主のものを罵つてはゐないであらうか。私は寄席に行つて彼の「話し家」が自分の容貌や性質を罵り、甚しきは扇子を以て己れの頭を打つて客を笑はせようと努めるのを見る時に、他人のをさうしたよりも一層深い罪のやうな感じがする。私は、私の魂は悪しと無下に言ひ放つのはそれと似た不安な感じがして好ましくない。やはり私は、私たちは本来神の子なのが悪魔に誘惑せられて悩まされてゐる、それで魂の内には二元が混在するけれども、結局善の勝利に帰するといふやうな聖書の説明の方が心に適ひ、又事実に近い気がする。私たちの魂は善悪の共棲の家であり、そして悪の方が遥かに勢力を逞しくしてゐる。併し心を深く省みれば、二つのものには自ら位の差が附いてゐる。善は君たるの品位を備へて臨んでゐる。さながら幼い皇帝が逆臣の群れに囲まれてゐるにも似てゐる。私たちの魂には或る品位がある。落ちぶれてはゐても名門の種といふやうな気がする。昔は天国に居たのが、悪魔に誘はれて今は地上に堕ちて居るといふのは、よくこの気持を説明してゐる。私たちは堕ちたる神の子である、心の底には天国の俤のおぼろなる思ひ出が残つてゐる。それはふる郷を慕ふやうなあくがれの気持となつて現はれる。私たちが地上の悲しみに濡れて天に輝く星をながめる時、私たちの魂は天つふる郷へのゼーンズフトを感じないであらうか? 私は私たちの魂がこの悪の重荷から一生脱することができないのは何故であらうかと考へる時、それは課せられたる刑罰であるといふ、トルストイやストリンドベルヒ等の思想が、今までの思想のうちでは最も私を満足させる。その他の考へ方では天に対する怨嗟と不合理の感じから医せられることはできない。「ああ私は私が知らない昔悪い事をしたのだ、その報いだ」かう思ふと、自ら跪かれる心地がする。「夫れ太初に道《ことば》あり、万の物これに由りて創らる。」とヨハネ伝の首《はじめ》に録されたる如く、世界を支へる善・悪の法則を犯せば必ず罰がなくてはなるまい。是れ中世の神学者の云つた如く、神の自律でもあらう。私たちの罪は償はれなくてはならない。併し百の善行も、一つの悪行を償ふことはできない。私たちは善行で救はれることはできない。救ひは他の力に依る。善行の功に依らず愛に依つて赦されるのである。宗教の本質はその赦しにある。併し善くならうとする祈りがないならば、己れの罪の深重なることも、その赦されの有り難さも解りはしないであらう。例へば親鸞が人間の悪行の運命的なることを感じたのは、永き間の善くならうとする努力が、積んでも積んでも崩れたからである。比叡山から六角堂まで雪ふる夜の山道を百日も日参した程の親鸞なればこそ、法然上人に遇つた時即座に他力の信念が腹に入つたのである。その時赦されの有り難さがいかに沁々と感ぜられたであらうか。思ひやるだに尊い気がする。私は親鸞の念仏を善くならうとする祈りの断念とよりも、その成就として感ずる。彼は念仏によつて成仏することを信じて安住したのである。彼が「善悪の字知り顔に大虚言の貌なり」と云つたのは、何々するは善、何々するは悪といふやうに概念的に区別することはできないと云つたのである。善悪の感じそのものを否定したのではない。彼は善悪の感じの最も鋭い人であつた。故に仏を絶対に慈悲に、人間を絶対に悪に、両者をディスティンクトに峻別せねば止まなかつたのである。
人間の心は微妙な複雑な動き方をするものである。生きた心は様々のモチーフやモメントでその調子や方向を変ずる。私は決して善・悪の二つの型を以てそれを測り切らうとするのではない。善と悪とは人の心の内で分ち難く縺れ合つて働く。嘘から出た誠もあれば誠から出た嘘もある。只それらの心の動乱の中を貫き流れて稲妻の如く輝く善が尊いのである。ドストイェフスキーの作などに描かれてゐるやうに、怒りや憎みの裏を愛が流れ、争ひや呪ひの中に純な善が耀くのである。私はそれらの内面の動揺の間に次第に徳を積み、善の姿を知つて行きたい。人生の様々の悲しみや運命を受ける毎に、心の眼を深めて、先きには封じられてゐたものの実相も見えるやうになり、捨てたものをも拾ひ、裁いたものをも赦し、漸く心の中から呪ひを去つて、万人の上に祝福の手を延ばすやうに、博く大きくなりたいのである。魂の内なる善の芽を培うて、「空の鳥来たつてその影に棲む」やうな豊かな大樹となしたいのである。造り主の名によつて凡ての被造物と繋りたいのである。ああ、私は聖者になりたい。(かく願ふことがゆるさるるならば)聖者は被造物の最大なるものである。併しながら、聖者といつても、私は水晶でつくられたやうな人を描くのではない。私の描く聖者は人間性を超越したる神ではなく、人間性を成就したる被造物である。それは造られたものとしての限りを保ち、人生の悲しみに濡れ、煩悩の催しに苦しみ、地上のさだめに嘆息しつつ、神を呼ぶところの一個のモータルである。真宗の見方からは猶ほ一個の悪人であつて、「赦し」なかりせば滅ぶべき魂である。私は罪の中に善を追ひ、さだめの中に聖さを求めるのである。私は、たとひ、親鸞が信心決定の後、業に催されて殺人を犯さうとも、パウロが百人の女を犯さうとも、その聖者としての冠を吝まうとは思はない。
願はくば我等をして、我等が造られたものであることを承認せしめよ。この承認はすべての愛でたき徳を生む母である。而して造られたるものの切なる願ひは、造り主の完さに似るまで己れをよくせんとの祈りである。
底本:「日本の名随筆86・祈」作品社
1989(平成元)年12月25日発行
底本の親本:「新装・倉田百三選集 第一巻」春秋社
1976(昭和51)年10月
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2000年11月22日公開
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