善くならうとする祈り
倉田百三

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《》:ルビ
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 我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不取正覚  ――無量寿経――[#この行はポイントを下げて、地より2字上げ]
 私は私の心の内に善と悪とを感別する力の存在することを信ずる。それは未だ茫漠として、明かな形を成してはゐないけれど、確かに存在してゐる。私はこの力の存在の肯定から出発する。私はこの善と悪とに感じる力を人間の心に宿る最も尊きものと認め、そしてこの素質をさながら美しき宝石の如くに愛で慈しむ。私は私がその中に棲んでゐるこのエゴイスティッシュな、荒々しい、そして浅い現代の潮流から犯されないやうに守りつつ、この素質を育ててゐる。私は沁々と中世を慕ふ心地がする。其処には近代などに見出されない、美しい宗教的気分が罩めてゐた。人はもつと品高く、善悪に対する感受性は遥かにデリケートであつたやうに見える。近代ほど罪の意識の鈍くなつた時代は無い。女の皮膚の感触の味を感じ分ける能力は驚くほど繊細に発達した。そして一つの行為の善悪を感じ分ける魂の力は実に粗笨を極めてゐる。これが近代人の恥づべき特色である。多くの若き人々は殆ど罪の感じに動かされてゐない。そして最も不幸なのは、それを当然と思ふやうになつたことである。或る者はそれを知識の開明に帰し、或る者は勇しき偶像破壊と呼び、モラールの名を無みすることは、ヤンガー・ゼネレーションの一つの旗号の如くにさへ見える。この旗号は社会と歴史と因襲と、すべて外より来る価値意識の死骸の上にのみ樹てらるべきであつた。天と地との間に懸るところの、その法則の上に己れの魂がつくられてゐるところの、善悪の意識そのものを否定せんとするのは近代人の自殺である。素より近代人がかくなつたのには複雑な原因がある。その過程には痛ましき様々の弁解がある。私はそれを知悉してゐる。併し如何なる罪にも弁解のないのはない。如何なる行為も充分なる動機の充足律なくして起るのは無いからである。道徳の前には一切の弁解は成り立たない。かの親鸞上人を見よ。彼に於ては、すべての罪は皆「業」に依る必然的なものであつて、自分の責任ではないのである。しかも自ら極重悪人と感じたのである。弁解せずして自分が、自らと他との運命を損じることを罪と感じるところに道徳は成立するのである。
 多くの青年は初め善とは何かと懐疑する。そしてその解決を倫理学に求めて失望する。併し倫理学で善悪の原理の説明できないことは、善悪の意識そのものの虚妄であることの証明にはならない。説明できないから存在しないとは云へない。凡そいかなる意識と雖も完全には説明できるものではない。そして深奥な意識ほど益※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、67−13]概念への翻訳を超越する。倫理学の役目は、私たちの道徳的意識を概念の様式で整理して、理性の目に見えるやうに(veranschaulichen)することにあつて、その分析の材料となるものは、私たちの既に持つてゐる善悪の感じである。善とは何かといふことは今の私にも少ししか解つてゐない。私は倫理学の如き方法でこの問に答へ得るとは信じない。善悪の相は、私たちの心に内在する朧げなる善悪の感じを便りに、様々の運命に試みられつつ、人生の体験の中に自己を深めて行く道すがら、少しづつ理解せられるのである。歩みながら知つて行くのである。親鸞が「善悪の二字総じてもて存知せざるなり。」と言つたやうに、その完全なる相は、聖人の晩年に於てすら体得できがたき程のものである。すべてのものの本体は知識では解らない。物を知るとは、その物を体験すること、更に所有《アンアイグネン》することである。善悪を知るには徳を積むより外はない。
 善と悪との感じは、美醜の感じよりも遥かに非感覚的な価値の意識であるから、その存在は茫として見えるがもつと直接に人間の魂に固存してゐる。魂が物を認識するときに用ゐる範疇のやうなものである。魂の調子のやうなものである。否、寧ろ魂を支へてゐる法則である。それを無みすれば魂は滅ぶのである。或る種類の芸術家には、人生の事象に対するとき、善悪を超越して、ただ事実を事実として観るといふ人がある。自分の興味からさやうに或る方面《ザイテ》を抽象するのは随意である。併し、それを具体的なる実相として強ひ、或は道徳の世界に通用させようとするのは錯誤である。或る人生の事象があれば、それは大きかつたり小さかつたりする如く、同様に善かつたり悪しかつたりする。物を観るのに善・悪の区別を消却するのは、恰も物体に一つのディメンションを認めないやうなものである。人生に一つの出来事があれば、必ず一面に於て道徳的出来事である。而して私はそのザイテに最も重大に関心して生きねばならぬと感ずるのである。それは何故であらうか? 私はよく解らない。恐らくこの価値の感じが他の価値の感じよりも一層魂の奥から発するからであらうと思はれる。私たちが真に感動して涙をこぼすのは、善に対してである。美に対してではない。もし美学的なるもの das Aesthetische と倫理学的なるもの das Ethische とをしばらく分けるならば、私たちの涙を誘ふものは芸術でも人生でも後者である。美しい空を見入つて涙がこぼれたり、調子の乱れた音楽を聞いて怒りを発したりする時でも、私たちの心を支配してゐる調子は後のものである。善悪の感じは私たちの存在の深き本質を成してゐるものであるらしい。私は芸術に於てもこの道徳的要素は重要な役目を持つべきものと信ずる。私はこの要素を取扱はない作品から殆ど感動することはできない。トルストイやドストイェフスキーやストリンドベルヒの作に心惹かれるのはその中に深い善・悪の感じが滲み出てゐるからである。「真の芸術は宗教的感情を表現したものである。」と云ふトルストイの芸術論が如何に偏してゐても、其処には深いグルンドがある。素より道徳を説明し或は説教せんとするアプジヒトの見え透くやうな作品からは、純なる芸術的感動を生ずることはできないけれども、たとひその作には際立つた道徳的の文字など用ゐてなくとも、その作の裏を流れてゐる、或は寧ろ作者の人格を支配してゐるところの人間性の深い、悲しい、或は恐ろしい善悪の感じが迫つて来るやうな作品を私は尊ぶ。決してイースセティシズムだけで深い作が出来るものではない。素より善・悪の感じといつても、私は深い、溶けた、輝いてゐる純粋な善・悪の感じを指すのであつて、世の中の社会的善悪や、パリサイの善をいふのではない。それらの型と約束を一切離れても、私たちの魂の内に稟在する、先験的の善悪の感じ、それはもはや、決して彼の自然主義の倫理学者たちの説くやうな、群居生活の便利から発したやうな方便的なものではなく、聖書に録されたる如く、魂がつくられた時に造り主が附与したる属性としてでなくては、その感じを説明できないやうな深い、霊的な善悪の感じを指すのである。かかる善・悪の感じは、芸術でなくては表現することはできない。ドストイェフスキーやストリンドベルヒ等の作品にはこのやうな道徳的感情が現はれてゐる。
 ここにまた一種の他のアモーラリストがある。それは世界をあるがままに肯定するために悪の存在を認めない人々である。凡そ存在するものは皆善い。一として排斥すべきものは無い。姦淫も殺生もすでに許されて此の世界に存在する以上は、善いものであるに相違ないと云ふのである。この全肯定の気持は深い宗教的意識である。私もその無礙の自由の世界を私の胸の内に実有することを最終の願望としてゐるものである。併しそれは決してアモーラルな心持からではない。世界をそのあるがままの諸相のままに肯定するといふのは、差別を消して一様なホモゲンなものとして肯定するのとは全く異なつてゐる。大小・美醜・善悪等の差別はそのまま残して、その全体を第三の絶対境から包摂して肯定するのである。その差別を残してこそ、あるがままと云へるのである。ブレークが「神の造り給うたものは皆善い」と云つたのは、後の意味での自由の地からである。ニイチェの願つた如く「善悪の彼方の岸」に出づることは、決して善悪の感じを薄くして消すことによつて達せられるのではなく、却つてその対立を益※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、70−14]峻しくし、その特質をドイトリッヒに発揮せしめて後に、両者を含むより高き原理で包摂することによつて成就するのである。天国と地獄とが造り主の一の愛の計画として収められるのである。善を追ひ悪を忌む性質は益※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、70−16]強くならねばならぬ。姦淫や殺生は依然として悪である。ただその悪も絶対的なものではなく、「赦し」を通して救はれることができ、善と相並んで共に世界の調和に仕へるのである。併しその「赦し」といふのは悪に対して無頓著なインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁さず認めて後に、そのいまはしき悪をも赦すのである。「七度を七十倍するまで赦せ」と教へた耶蘇は、「一つの眼汝を罪に堕さば抜き出して捨てよ」と誡めた同じ人である。「罪の価は死なり」とある如く、罪を犯せば魂は必ず一度は死なねばならぬ。魂は、さながら面を裹む皇后がいかなる小さき侮辱にも得堪へぬやうに、一点の汚みにも恥ぢて死ぬほど純潔なものである。モンナが夫に貞操を疑はれた時に、「私の眼を見て下さい」と云ふところがあるが、私は彼処を読む時に実に純潔な感じがした。裁かぬといふのは尊い徳である。併しこれと似て而も最も嫌なのはズボラ(indulgence)である。好人物といふ感じを与へる人にはこのズボラが多い。『アンナ・カレンナ』の中のオブロンスキーのやうな人がそれである。オブロンスキーは好人物である。誰も憎む気にはなれない。併しその妻の心はどれほど傷つくか知れない。かやうな人は悪意なくして実に最も他人の運命を損じるエゴイスティックな生き方をしてゐるのである。ゲレヒティヒカイトの盛んな人は裁く心も強い。そして鋭いといふ感じを他人に与へる。裁くのは素より悪い、その鋭さは天に属するものではない。併しズボラより遥かに増しである。何となれば、その鋭さは真の赦しの徳を得た人には深いレリヂァスなものとなるけれど、ズボラは真の赦しの心と一見似て実は最も遠いものだからである。凡そ宗教には二つの要素が欠けてはならない。一はいかなる微細な罪をも見遁さず裁くこと、一はいかなる極悪をも赦すことである。この矛盾を一つの愛に包摂したのが信心である。キリストの説教にはこの二つの要素が鮮かに現はれてゐる。
 私は飽くまでも善くなりたい。私は私の心の奥に善の種のあるのを信じてゐる。それは造り主が蒔いたのである。私は真宗の一派の人々のやうに、人間を徹頭徹尾悪人とするのは真実のやうに思へない。人間には何処かに善の素質が備はつてゐる。親鸞が自らを極重悪人と認めたのもこの素質あればこそである。自分の心を悪のみと宣べるのは、善のみと宣べるのと同じく一種のヒポクリシーである、偽悪である。その上私はかく宣べるのは何者かに対して済まないやうな気がする。私はかやうな問題について考へる度に、何となく胸の底で「否定の罪」とでもいふやうな宗教的な罪の感じがする。凡そ存在するものはでき得る限り否定しないのが本道である。造られたるものの造り主に対する務めである。私の魂は果して私の私有物であらうか。或は神の所有物ではあるまいか。私は、魂の深い性質の内には、自分の自由にならない、或る公けなもの、或る普遍なもの、自己意識を越えて能《はたら》く堂々たる力があるやうな気がする。私たちの善・悪の意識に内在するあの永遠性は何処から来るのであらうか。或は造り主の属性《アツトリプート》が私たちの先天的の素質として顕はれるのではあるまい
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