、遺児なきときは社会事業に捧げ、あるいは場合によっては再婚するというようなことも決して考えられない運命ではない。こうした考え方は人生の広き経験なき者にはむしろ淋しいことであるが、あのチェホフのような博大な人生観やまたヴィルドラックのような現実の理解ある暖かき社会観もあるのであって、必ずしもすべての人に厳格な突きつめた身の処分を要すべきものではない。まして大乗仏教のような深い見方をすれば、「凡聖逆謗ひとしく廻入すれば衆水海に入りて味一つなるが如し」というような趣きもあるのであって、さまざまの人々がそのうけた精霊の促がすところにしたがい、それぞれの運命のコースを辿りつつ、全体としては広大なる人生を作っているのである。人間共存同悲とは、かかる心持をいうのであって、これなくしては共同体の真の結紐はできないのである。また人と人との結合は一つの運命であって必ずしもそれが世法に相応しく行われるとは限らないものである。そこに個人生活と社会生活との不調和を生じて悲劇を生むものであるが、それらのいきさつについてあまりに厳しく裁いてはならない。これはもとより望ましきものではないが、それは人間苦悩の哀れむべき相であって、またそれを通じて美しき人間性の発露もあり得る。日本民族独特の情死の如きは、もっと鞏固な意志と知性とが要求されるとはいえ、またそうでなければ現われることのできない人心の結びと契いとの機微があるのである。梅川忠兵衛がもし心中しなかったら、世間の人情はさらに傷つくかもしれないだろう。ダンテは神曲においてポーロとフランチェスカとの不義の愛着を寛大に取り扱った。しかしながら現代の男女としてはかような情緒にほだされていわゆる濡れ場めいた感情過多の陥穽に陥るようなことはその気稟からも主義からも排斥すべきであって、もっと積極的に公共の建設的動機と知性とをもって明るく賢く快活に生きるべきであろう。
さて私は別離について語ること多くして合うことの悦びについていうところ少なかったかもしれない。合うことは人生の最大の悦びの一つである。よき友に合い、知己に合い、師に合い、それにも増して理想の愛人に合うことはたとえようもない幸福である。士は己れを知る者のために死すというが、自分の精霊の本質をつかんでくれるような知己に合うとき、人は生命をも惜しからじと思うのである。先輩や長上や主君の知遇に合うことはこの人生行路におけるこの上ない感謝であって、世間にはこの感激に生きている人は少なくない。あの菅公の宇多上皇に対する恩顧の思い出はそれを示して余りあり、理想の愛人に合うことの悦びはいまさらいうまでもなく花は一時に開き鳥は歌うのである。青春未婚の男女であってこの幸福を求めて胸を躍らせない者はないであろう。またそれは与えられるのが常である。そうでないように見えてもやはりときに合うものである。ある若い女性は私の処へ初めてきたとき「私のような者を愛してくれる人はありませんわ」といって泣き顔になったが、二年ののちそれが与えられたので私がそのときの事をいうと、「夢のようです」と今はいっている。
またすべての人が苦い別離を味わうとは限らない。自然に相愛して結婚し、幸福な家庭を作って、終生愛し通して終わる者ははなはだ多い。しかしそうした場合でもその「幸福」というのは見掛けのものであって、当時者の間にはいろいろの不満も、倦怠も、ときには別離の危険さえもあったであろうが、愛の思い出と夫婦道の錬成とによってその時機を過ごすと多くは平和な晩年期がきて終わりを全うすることができるのである。
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今更に何をか嘆かむ打ち靡き心は君に依りにしものを(万葉巻四)
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調和した安らかな老夫婦は実に美しく松風に琴の音の添うような趣きがあって日本的の尊さである。
君臣、師弟、朋友の結合も素より忍耐と操持とをもってではあるが終わりを全うするものもあるのであって、かような有終の美こそ実に心にくきものである。自分の如きは一生を回顧して中絶した人倫関係の少なくないのを嘆かずにはいられない。それはやはり自分の運命が拙いのであって、人間が初めから別離の悲哀を思うて恐れをもって相対することをすすめる気にはもちろんなれない。やはり自然に率直に朗らかに「求めよさらば与えられん」という態度で立ち向かうことをすすめたい。
けれども有限なる人生において、事実は叢雲が待ちかまえているのは避けられないことを知る以上、対人関係はつつましく運命を畏む心で行なわれねばならないのであって、かりそめな軽忽な態度であってはならない。人生の遭逢は幸福であるとともに一つの危機である。この危機を恐れるならば、他人に対して淡泊枯淡あまり心をつながずに生きるのが最も賢いが、しかしそれではこの人生の最大の幸福、
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