は「蓮の浮き葉の一寸いと恍れ、浮いた心ぢやござんせぬ。弥陀を契ひに彼の世まで……結びし縁の数珠の緒を」という一ふしがある。
 しかしすべての結合がこういった純真な悲劇で終わるとはもとより限らない。ある者はやむなく、ある者は苦々しく、またある者は人生の知恵から別れなければならないのである。有名な「新生」の主人公は節子に数珠を与えるがやはり別れねばならなかった。いかに数多くの愛し合った男女、誓い合った朋友、恩義ある師弟がそれぞれの事情から別れねばならなかったであろう。その中には生木を割くような生別もあるのである。
 いったん愛し合い結び合った者は一生離れず終わりを全うするのが美しく望ましいのはいうまでもない。この現実の世ではそうした人倫の「有終の美」は稀なだけにどんなに尊いかしれない。天智天皇と藤原鎌足のような君臣の一生的の結びは彼の漢の高祖や源頼朝などの君臣の例と比べて如何に美しく、乃木夫妻のようなのは夫婦の結びの亀鑑《きかん》である。リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグとのようなのは師弟と盟友の美しき例であろう。しかしながら人生の行路においては別離すべきときには別離するというモラルがまた厳かにあるのである。離れ難い愛着を感じる愛欲の男女がこの上の結合が相互の運命を破壊しつくすことが見通されるとき、その絆を断固として断たねばならないことは少なくない。たいていの妻子ある男性との結合は女性にとって、それが素人の娘であるにせよ、あるいはいわゆる囲い者であるにせよ、早晩こうした別離の分岐点に立たねばならなくなるのが普通である。そこには相互の間に涙の感謝と思い出と弁解とがあるであろうが、しかもこの人生にもっと厳しい現実の掟は、傷ましき別離を要求せねばやまぬのである。ケーベル博士は「結末をつける事、此れ何たる芸術であろう」といっていられる。動きのとれなくなった愛欲関係になおひかれて相互の運命を破局に導き、世法の威厳を踏みにじるのはたとい同情すべきであっても、正しいことではない。そこに強き意志と深き英知とを働かして「芸術ある」結末をつけねばならないのである。素よりかような結末には深きつつしみと心遣いとがなければならないのはいうまでもない。多年愛し合った男女が別れて後互いに弱点を暴露して公に争うが如きは醜き限りである。願わくば別離を経験したことによって、前にも書いたようにその感情の質が深くそして濡れてくるような別離をしたいものである。愛する者の別離は胎盤が子宮から離れるように大きな傷をその人の霊魂に与えるものである。したがってその際の心遣いは慎重で思いやり深くなければならないのである。
 こうした別離は男女関係ばかりではない。朋友も師弟も理義によっては恩愛を捨てて別離しなければならないこともある。かくしてニーチェはワグネルと別れ、日蓮は道善房と別れねばならなかった。清澄山の道善房はむしろ平凡な人であったが、日蓮が法華経に起ったとき、怒って破門した。後に道善房が死んだとき日蓮は身延山にいたが、深く悲しみ、弟子日向をつかわして厚く菩提を葬わしめた。小湊の誕生寺には日蓮自刻の母親の木像がある。いたって孝心深かった日蓮も法のため母を捨てねばならなかった。
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己が捨てし母の御姿木に造り千度額ずり哭き給ひけむ
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 これはこの木像を見て私の作った歌である。
 ある人を愛して結ばれやがてやむなく別離したとき「今度はまたよりよき人が与えられるからいい」というふうに思うことはできない。
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敷島の日本の国に人二人在りとし思はば何か嘆かむ(万葉巻十三)
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 したがってその人のためにも、自分のためにも、それを傷む心の持って行き場がないからである。どうしても彼のために祈り、自分の傷を癒やしてくれる人間以上のものを求めたくなる。人間の愛につまずいた者が人間以上のものを求めるようになる心理は実に自然である。人の心は恃み難しとして神にゆく者は少なくないが、それほどでなくても少なくとも宗教的心情を抱くようになるものである。しかし私たちはすべての人間が別離を味わったからといって、あるいは殉死し、仏門に帰し人生の希望を失うことを期待するものではない。一つの別離ののち勇ましく立ち上がり、さらに一層博い力強い視野にたって踏み出した者は少なくない。これには広い人生の海があり、はかり知れない運命の地平線があるのであって、決して一概に狭く固く考えるべきではない。多くの秀れた人々の伝記を読むのに一生にただ一つの愛しか持たないというような例は稀である。そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレーテの川があり、歳月はいつしか傷を癒やしてまた新しい情熱を生み出してくれるものである。軍人の未亡人の如きも遺児を育て
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