人生における離合について
倉田百三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)亀鑑《きかん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女御|弘徽殿《こきでん》の

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天の原かかれる月の輪にこめて別れし人を嘆きもぞする
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 私たちがこの人生に生きていろいろな人々に触れあうとき、ある人々はその感情の質が大変深くてかつ潤うているのに出会うものである。そして経験によるとこの種の人々はその人生行路において切実な「別離」というものを味わった人々であることが多い。深い傷ましい「わかれ」は人間の心を沈潜させ敬虔にさせ、しみじみとさせずにはおかない。私は必ずしも感傷的にとはいわない。何故なら深い別れというものは涙を噛みしめ、この生のやむなき事実に忍従したもので、そこには知性も意志も働いた上のことだからである。
 人間が合いまた離れるということは人生行路における運命である。そしてこれは心に沁みる切実なことである。世の中には対人関係、人と人との触れ合いについてかなり淡白な関心しか持っていない人々もあるが、しかし人間の精神生活というものはその大部分、特に深い部分を対人関係に持っているといわねばならぬ。対人関係に気のない[#「気のない」に傍点]人は人生に気のない人である。生きることに熱心な者は強く人を愛し濃く人に求め深く人をたのみさえして生きないわけにゆかないのである。そこに人間の最も人間らしい悩みの中心課題があり、そこからまた従って英知とか諦めとか悟りとかいうものが育ってくるのである。人生の離合によって鍛えられない霊魂の遍歴というものは恐らくないであろう。
 合うとか離れるとかいうことは実は不思議なことである。無数の人々の中で何故ある人々と人々とのみが相合うか。そしてせっかく相合い、心を傾けて愛し合いながら終わりを全うすることができないで別れねばならなくなるのか。仏教では他生の縁というような考え方をするが、かりそめに対すれば、こうしたこともただかりそめの偶然にすぎないけれども、深く思えばいろいろ意味のあることである。結婚などというものは星の数ほどの相手の中から二人が選び出されて結び合うその契機の最大なものはこの縁である
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