質が深くそして濡れてくるような別離をしたいものである。愛する者の別離は胎盤が子宮から離れるように大きな傷をその人の霊魂に与えるものである。したがってその際の心遣いは慎重で思いやり深くなければならないのである。
こうした別離は男女関係ばかりではない。朋友も師弟も理義によっては恩愛を捨てて別離しなければならないこともある。かくしてニーチェはワグネルと別れ、日蓮は道善房と別れねばならなかった。清澄山の道善房はむしろ平凡な人であったが、日蓮が法華経に起ったとき、怒って破門した。後に道善房が死んだとき日蓮は身延山にいたが、深く悲しみ、弟子日向をつかわして厚く菩提を葬わしめた。小湊の誕生寺には日蓮自刻の母親の木像がある。いたって孝心深かった日蓮も法のため母を捨てねばならなかった。
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己が捨てし母の御姿木に造り千度額ずり哭き給ひけむ
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これはこの木像を見て私の作った歌である。
ある人を愛して結ばれやがてやむなく別離したとき「今度はまたよりよき人が与えられるからいい」というふうに思うことはできない。
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敷島の日本の国に人二人在りとし思はば何か嘆かむ(万葉巻十三)
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したがってその人のためにも、自分のためにも、それを傷む心の持って行き場がないからである。どうしても彼のために祈り、自分の傷を癒やしてくれる人間以上のものを求めたくなる。人間の愛につまずいた者が人間以上のものを求めるようになる心理は実に自然である。人の心は恃み難しとして神にゆく者は少なくないが、それほどでなくても少なくとも宗教的心情を抱くようになるものである。しかし私たちはすべての人間が別離を味わったからといって、あるいは殉死し、仏門に帰し人生の希望を失うことを期待するものではない。一つの別離ののち勇ましく立ち上がり、さらに一層博い力強い視野にたって踏み出した者は少なくない。これには広い人生の海があり、はかり知れない運命の地平線があるのであって、決して一概に狭く固く考えるべきではない。多くの秀れた人々の伝記を読むのに一生にただ一つの愛しか持たないというような例は稀である。そこには苦痛を忘却さしてくれるいわゆるレーテの川があり、歳月はいつしか傷を癒やしてまた新しい情熱を生み出してくれるものである。軍人の未亡人の如きも遺児を育て
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