しんと痛み、傘がないので衣は濡れ、まっくらなこの漁村に昨夜おそく着きました。
今朝も空は灰色に低く垂れて、船宿の汚ない部屋の欄干にすがって、海のどんよりした色を見ていると、淋しい淋しい気がいたします。何ともいいようのない無常を感じます。私はこの頃は西行や芭蕉などの行脚《あんぎゃ》や托鉢《たくはつ》して歩くような雲水のような心に同感します。
私は西国八十八か所を遍路して歩きたいと思いましたが止められました。天香さんは勝淳さん(一燈園の尼さん、切髪の品のいい四十歳ぐらい、天香さんと、夫婦のようにして暮らしていられます)と一緒に去年の春西国巡礼をせられました。「お遍路さん――」といって路《みち》ばたの茶屋などでも大切にしてくれるそうです。
私はこのようにぶらぶらしていてついにどうするのでしょう。明日はともかく尾道に帰ろうと存じます。そのうえでまた何とか考えをつけましょう。私は考えをまとめたいと思ってここに来たのに、来てみれば冷たいおちつかぬ心地ばかりして、アンイージーで、はやく帰りたくなりました。
艶子はこの冬休暇にお訪ねいたしましたかしら。今日は何だか悲しくて書く気がいたしません。寒いゆえできるだけ大切にして御勉強なさいませ。[#地から2字上げ](久保正夫氏宛 一月十日。倉橋島より)
師と弟子との純情
今日はあなたの「聖フランシスの小さき花」が届きました。装いも、内容も、文体も典雅な美しさと悦《よろこ》びを保ち、私の心にふさわしき、感激を帯びたひびきを伝えました。私はあなたのお仕事が初めて世に公けになったことを祝します。やがてあなたの創作なども公けの宝として人々に別けもたるる日の早かれかしと祈ります。あなたのプレゼントを私ははじめから、あたりまえのこととして待ち設けられるほど、あなたの生活と仕事に親しくなっていることを悦びました。感謝と同慶の心をもてあなたの送り物を受け取ります。
私は先月の末からこの宿にうつりました。青い畑と、静かな林を後ろにして小さな牧場とが二階の欄干から眺められる小じんまりした、感じのいいところです。一燈園から七、八丁ばかり、天香さんは町へ出るたびに、下から倉田さんと声をかけて下さいます。ちょうど通り路にあたるのです。私は二階から首を出して晴れやかな親しい挨拶《あいさつ》を交わします。私は一燈園へ毎朝通ってお経を誦し礼拝した後で、天香さんの次男の、理一郎という十五になる少年を連れてかえって英語を教えています。この少年は色の白い美しい悧溌《りはつ》な子で私を信じてすがります。
私はふしあわせな人々のためにできるだけ力を分かっています。それらのさまざまな物語りはあなたにお目にかかって話したらば限りなくたくさんに多様にあります。よく私は一燈園で何心なく座敷の襖《ふすま》をあけると、天香さんの前に奥様らしい三十女などの泣きくずれて訴えているところを見受けて、はっと心を打たれることなどございます。私は天香さんのひとりの弟子として信愛されその愛憐の仕事をたすけることを幸福に感じます。
あなたは日々仕事にいそしみ、御家庭の不調和にもたえて、愛と忍耐とをまなび、そのなかからあなた自身と周囲とをしあわせにする道を拓《ひら》きつつ、努力していらっしゃるのですね。そのなかからあの「小さき花」の訳書などもできたのですから尊いと思います。フランシスのものなどこそローマンスを求める心や、ドキュメントを渉《あさ》る心などで読まれるべきものではなく、己れの日々の生活に愛と忍びとの味を沁み出させんとの実践の気持ちでしかせられなくてはなりませんね。天香さんなどはフランシスのとおりに行なっていられます。たしかに聖者という感じがいたします。天香さんは昔西村家という待合に十何年間も住んでいられました。今の勝淳さんという一燈園のクララともいうべき尼は、昔の西村家の仲居でした。品のいい静かな婦人です。一燈園の二階の婦人の室《へや》には大小をはさんだりっぱな武士の絵姿を軸物にして懸けてあります。これは勝淳さんの祖父の肖像だそうです。私が一燈園にかえってあくる朝は大雪で、林も垣根もま白になりました。私は顔を洗いに庭に出ますと、そこに勝淳さんが、白雪の重たく降るなかに、立ちつくして、天を拝しつつ、指を輪のようにして黙って祈りの姿でいました。私はその気高い、切髪にした四十幾つの女の祈りの姿を忘れることができません。
また一燈園の仏壇に飾られてある観音の絵像は、西村家の娘なつ子さんの似顔です、なつ子さんは二十四で、四年前になくなりました。私は天香さんの日記「天華香洞の礎」というのを読ませていただき、なつ子さんの死がいかに天香さんへの打撃であったかを知って涙をこぼさせられました。多くの若い娘たちが、天香さんを慕うて来て、なつ子さんのようになくなったそうです。私は深い深いこの聖者の胸の底の悲哀の測りがたきことを感じます。ある時私は問いました。
「あなたに求めに来た人が、あなたを去る時に淋しいでしょうね」と。天香さんはよく問うてくれたというように感動した様子を帯びて答えました。「初めはずいぶん淋しかった。けれど今はそうでもない。別れる時、自らの不徳をわびて、去る人の後ろ姿を手を合わせて拝んで送っておけば、その人が行きつまった時には必ず帰ってくるものです」
私はそういう深い別れの心持ちがまたとあろうかと思って泣きたくなりました。そして、その心持ちを自己のものとするまでに、この淋しき聖者はどれほど苦しんだことでしょう。
天香さんをあなたに紹介する日の早く来らんことを祈ります。
一昨日お絹さんが突然夜更けに私を訪《たず》ねて参りました。広島の牧師に恋慕せられて、奥さんに虐げられ、いたたまらずに書置きを残して逃げてきました。私は西田さんにお目にかかって、お絹さんを托しました。西田さんはいつでも一燈園に置いてあげるとおっしゃいました。お絹さんは京都に二日私と一緒に暮らして、昨日故郷なる丹後の宮津に帰りました。お絹さんは福山での騒動以来よほどつらかったものとみえて、世帯やつれがして、涙もろくなり、泣いてばかりいました。私は心からあわれになりました。そして行く末は、美しくないのはしんぼうして、私の一生の伴侶にしてやろうと思います。色香はなくても私は大切にしてくれるでしょう。
この頃の私の心は慈しみと悲しみとに濡れています。今日は雨が煙るように降って肌さむく、火鉢に親しみながらぼんやりしていました。あなたのことを思います。軽ろいところを捨てて重たくなり、甘えるのも脱して真実なるものへ深入りして下さい。あなたの成長をいのる。
[#地から2字上げ](久保正夫宛 二月八日。京都岡崎より)
隣人としての共棲
私はこの二十日ばかり病気で寝ています。根気がなくて御無沙汰になってすみませんでした。堪忍して下さい。正夫さんの「完全の鏡」は確かに受け取りました。また、長らく拝借していた「朝」と「イミテイション、オブ、クライスト」とを二、三日前に送り出しました。こちらで私のほか、数人読みました。まことにありがとうございました。私はこの頃毎日発熱して食事が進まないので物憂い心地で暮らしております。今日は根気がありませぬから著しいことだけ書き送ります。実は私は明日、お絹さんと家持ちを初めます。父母の許可も得ました。この二十日ばかりお絹さんは私の下宿に来て毎日看護してくれております。私は一生|娶《めと》らず、お絹さんをそばに置いて、結婚でなく共棲を続ける気です。お互いの自由を縛らないで、隣人として相哀れみ、平和な、睦《むつま》じい暮らし方をする気です。私はこの病弱なからだを優しいお絹さんの看護の手に委ねます。そして私は思想上の師として彼女を導き、キリストとマルタのごとくあるいはむしろ乳母と病みやすき若者とのごとくに慈愛と憐憫《れんびん》とで包むように愛し合いましょう。私はお絹さんの腕に抱かれて死ぬ気です。
お絹さんは年二十六、人生の悲哀をかみしめています。もはや色香もあせています。私への愛もどこかに母らしい気持ちも伴ないます。私は今の若さでもっと若い、美しい女との華やかな結婚を思わぬではありませんけれど、もはや恋のできる心ではなし、お絹さんがあわれであわれで振り捨てる気にはなれず、何もかも運命の催すところとあきらめて、一生涯の共棲と心を決めました。とはいえ淋しい心地がして、スイートな感じなどちっとも起こりません。お絹さんも私の心を察して淋しい思いに沈みます。そして「あなたは私と共同生活をしても気に入った人ができればいつでも結婚なさい」と申します。私はお絹さんの心をあわれみます。そして、もうどんな美しい女があっても娶りません。そして淋しく睦じく、二人で暮らします。四月初旬には妹も帰り、三人で京都で暮らします。そして機を見て上京いたします。あなたはこの春休みに私の新しい家にいらっしゃいませんか。春の京都を見物かたがたいかがですか。
私はどうしてこのように病弱なのでしょう。つくづく病むものの悲哀を感じます。
まだお寒うございますからお大切になさいませ。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 三月二十四日。京都より)
妹来たる
お手紙いつもやさしく慰め励まして下さってありがとうございます。あなたは近頃|風邪《かぜ》の加減でこの前植物園で妹がお目にかかった時にもお顔の色も勝《すぐ》れなかったようにお見受けしたということですが、昨今はいかがでございますか、ほんとに大切になさいませ。私は一時は少なからず心配しましたが、お絹さんの親切な看護のおかげか、今では熱も去り、食事も進み、ほとんど常態に恢復いたしましたから悦んで下さい。
昨日は、また、久しぶりに、めでたく卒業した、愛する妹が帰って来まして、七条駅まで迎えに行き、昨秋以来の、なつかしい逢瀬《おうせ》の、互いに労《ねぎら》う挨拶を交わす時にも、兄妹ともしあわせな心地につつまれました。
私の新しい家に着くと、お絹さん――これは別府の時から、妹を渇仰してるのです――が、かいがいしく、いろいろと世話をして、荷物の世話などしてやりました。天香さんにも通知をして悦んでもらいました。これからしばらく、京都で三人暮らすことになります。私の住所は、東山の麓《ふもと》に近い、田圃《たんぼ》のなかの淋しいところにあります。父からもらう少しのお金で、三人貧しく、睦じく暮らすつもりです。お父上がお国から見えになるそうですね。その後で私のとこへもいらしていただけるかもしれない由、もし、そうできたなら、私はどれほど悦ぶか知れません。正夫さんとは昨夏をああして二十日も一緒に暮らせましたけれど、あなたとは三年夏のなかばの日に、カフェで別れたきり、お目にかからないのですものね。まことにずっと昔の、昔のことのような気がいたします。
四月は京都のもっともたのしい季節で、祇園《ぎおん》の桜も咲き、都踊りも始まります。あなたも一度は京にお越しなされませ。天香さんにもお絹さんにもお引きあわせ申します。お絹さんを、私はあわれに、いとしくおもい、仏の眼のうるおいと赦《ゆる》しとをもって、優しく、慈《いつく》しむ気でいます。お絹さんは私を玉のように大切に、守るように世話をしてくれ、いつもよく働きます。そしてその容色や才能が私を満足させてはいないことを熟知して、心の底でいつも遠慮していることを私は知っていますから、私はお絹さんを淋しがらせぬように努めています。私の、若い、おとこ心は、時としては、若い、美しい娘さんなどを見る時、お絹さんと一生共棲することを大きな寂寞《せきばく》と感じさせることもありますけれど、そのような時には私はいつも考え直します。
病院時代の物語りや、別府の船の別れや、福山警察署の別れや、一燈園での再会や、さまざまのことを思い出す時に、私はお絹さんをあわれにあわれに、思います。そしてできるだけ愛そうと思います。
一緒に暮らして感ずる淋しさは、このまま振り捨てた後で私の心を責められる気がかりより、いくらましかもしれません。
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