、あなたは赤面なさいます。なにとぞ許して下さい。思うに謙さんは純潔なのでしょう。それでわからないのでしょう、肉の交わりはたしかに醜な、エゴイスチックなものです、ひとりの少女に対して、もし性欲が起これば、その時の心のなかには愛はありません。異なった動機があります。その動機は天より来るものでなく、地獄にいたるような性質のものです。男と女とは性欲においては互いに食い合う獣のような相にあります。私は恥ずかしくてその証をすることができません。このことはだんだん詳しく申し上げますつもりですが、私は性欲のない、性のねがいというものを心に描きます。肉の交わりのない、しかも性のねがいの飽和する男女の恋、それにはエゴイスチッシュな動機の少しも交わらぬ恋を求めます。それは楽園を失う私たちにはたとえ許されなくとも、私はかかる恋を求めます。もしエゴイズムが悪しきならば肉の交わりは悪しきものです。たとえそれが子供の生まれる唯一の道であるにしても、肉の交わりをする時の男の心はエゴイスチッシュであることは私は今は疑いません。肉交の恐るべきは、その時男女は互いに犯しながら、愛を行のうたと自ら欺くところにあります。私たちが他の生物を食わなくては生きられなくとも、それを食うことはよいことではないように、やむをえぬ保存の道であっても肉交は悪しきものです。私は肉の交わりについてはそのように信じています。そして生物が互いに食うことが神の罰のように肉交しなくてはならないのは、人間に与えられたる罰ではないか。アダムとイヴとは楽園ではそのようなことはしなかったか、してもエゴイスチッシュな動機からでなくてできたのであろうと思います。トルストイが「夫婦はできうる限り肉交を避けよ」といったのは性交のエゴイズムに触れてそれを恐れたからと思われます。私は肉交を愛の表現と誤解した私の過ちを、多くの青年が共にするのを実に残念に存じます。
けれど私は性の欲求を性欲のほかに認めてそれを肯定したいのです。私はそのような天使の恋というべき恋を憧憬いたします。それはインノセントな男女よりもひとたび性欲に落ちて、それを厭離したる男女が神に祈りつつ相愛し、貞潔を守り、もし性欲に落つれば神に潔めを求めつつ共生することによって実現できますまいか。たとえ貞潔を完全に守れなくても、それをシュルドとして神に赦しを求め、実際に貞潔を理想として努力するな
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