たしました。癒らないで出るかなしさを人々に慰められるのがいっそう苦しゅうございました。私は百三十幾日の間親しみたる人々に別れを乞いに行く時にはセンチメンタルになってしまいました。そして「幸福に暮らして下さいねえ」とだれにもかれにも申しました。絵を分かった肺の悪い友は非常に落胆して私と別れることを大きな幸福を失うことでもあるかのように嘆きました。いよいよ病院を出る時には玄関まで岩井の母親と嬢さん(聖書の友)や二、三の知人が送ってくれました。肺の悪い友は歩行してはいけないと私が止めるのをもきかずにしいて玄関まで出ました。蒼《あお》ざめた顔には興奮した眼が不安に光っていました。私は門を出る時振り向いてその病友の顔を見た時これが一生の別れだと思いました。門を出ると春浅き街は風がひどく吹いていました。私は「病院よ、祝福あれ」と声を立てて叫びました。そして「みんなみんなしあわせに暮らして下さい」と心のなかで涙とともに祈りました。その日から私は市内にある叔母の家で数日間暮らすことになりました。この家庭は富み栄え、そしてそれがためにかえって不幸なる多くの家庭の一つでした。私はこの家庭にあっては不幸でした。あまりに物質的なる家庭の空気は私の傷《いた》める心にふさわしくありませんでした。私は私のこの頃の他人の幸福のためにおせっかいな心から、そしてキリストの「なんじらは世の光なり、地の塩なり」といわれた言葉などを思い出して、少しく叔母に精神的に和らげられたる家庭について語りました。私は謙遜なる心持ちでいったのだけれどあまり好感情は与えませんでした。また私はお絹さんとの交際に関してきわめて不愉快な疑いをかけられているので、いっそう気まずい心地で暮らさなければなりませんでした。それで私はもっぱら、脊髄病《せきずいびょう》で幼児よりほとんど不具者となっている私の従妹《いとこ》と語り、慰めることによって日を送りました。そのようなわけで、艶子から見舞いに来るという電報を受け取った時には福音《ふくいん》のごとく喜びました。愛する妹は天使のごとく私に来たりました。そして謙さんから美しい西洋の草花の束や、正夫さんからの絵や小説やそして二通の優しき励ましとなぐさめの手紙を受取った時は、まことに幸福な思いに満たされました。私はそれらの幸福をけっして私の受くべき当然のものとは思いません。神様の恵みと感謝いたし
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