うに思います。自分ながら自分の興奮のすき[#「すき」に傍点]が見えてその結果は興奮しないことになります。私はつくづく自分の器量不相応な大げさな感情の高潮のアイテルなことを知りました。力を伴のうた感情だけ起こしたくなりました。これは天香さんにしじゅう接触しているためなのでしょう。
 たとえば、
「妹にこれから経済問題にぶっつからせてやろうと思います」などと自分でも悲壮な気持ちになって天香さんに話します。すると具体的な実行の話になります。すると天香さんは「それではぶつからすのではなくて、そっと触れさすのですね」といわれます。そして私は、前に起こした自分の悲壮的な感情などをアイテルに思いつつ帰ります。
 そんな目にたびたび出あったので、私はつくづく自分の感情の分不相応なことを知るようになりました。そして自分の器量、実力を省みます。実行的精神を伴なわない興奮は私たちを軽くし、表現の威力を減ずるばかりですね。このようなことをいうのは失礼ですけれど、妹がいつしか「正夫さんのお手紙を読んでいると、私は軽く受け流すような気持ちになります。そのなかに不幸なこと悲しいことが書かれてあっても、そんなに心配する責任を感じなくてもよいような気がします」
 と私に話したことがあります。これなどもいろいろな原因もありましょうが、正夫さんが大切な文字を軽く使うからだと思います。実力の上に建てられた表現ならば必ず威力を持つはずと思います。
 とにかく私たちは、願いのなかに実が足りませんね。いいかえれば、願いがまだ祈りになっていませんね。祈りの気持ちは実行的精神の最深なるものと思います。私はこの頃何だか力抜けがしたような気がして空虚でたまりません。もっと確かな歩みをしたい。それにはやはり感情のなかからアフェクションを取り去るのが第一と思います。そうすると寂しく孔雀《くじゃく》の羽根をむしったように、自分の姿が惨《みじ》めに見えるでしょう。けれど私たちの本体はそれだけにすぎないと思います。それから実体のある感情を起こして成長して行きたいと思います。でなくては私はもはや行きづまりました。進みにくくて困ります。私たちのアイテルさは、私たちの感情のなかに本丸を据えています。
 私は天香さんに衝かれてから、この頃自分の浮足なことが目に見えて仕方がなくなりました。私は不幸です。しかし「これからだ」という気もします
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