なくなったそうです。私は深い深いこの聖者の胸の底の悲哀の測りがたきことを感じます。ある時私は問いました。
「あなたに求めに来た人が、あなたを去る時に淋しいでしょうね」と。天香さんはよく問うてくれたというように感動した様子を帯びて答えました。「初めはずいぶん淋しかった。けれど今はそうでもない。別れる時、自らの不徳をわびて、去る人の後ろ姿を手を合わせて拝んで送っておけば、その人が行きつまった時には必ず帰ってくるものです」
 私はそういう深い別れの心持ちがまたとあろうかと思って泣きたくなりました。そして、その心持ちを自己のものとするまでに、この淋しき聖者はどれほど苦しんだことでしょう。
 天香さんをあなたに紹介する日の早く来らんことを祈ります。
 一昨日お絹さんが突然夜更けに私を訪《たず》ねて参りました。広島の牧師に恋慕せられて、奥さんに虐げられ、いたたまらずに書置きを残して逃げてきました。私は西田さんにお目にかかって、お絹さんを托しました。西田さんはいつでも一燈園に置いてあげるとおっしゃいました。お絹さんは京都に二日私と一緒に暮らして、昨日故郷なる丹後の宮津に帰りました。お絹さんは福山での騒動以来よほどつらかったものとみえて、世帯やつれがして、涙もろくなり、泣いてばかりいました。私は心からあわれになりました。そして行く末は、美しくないのはしんぼうして、私の一生の伴侶にしてやろうと思います。色香はなくても私は大切にしてくれるでしょう。
 この頃の私の心は慈しみと悲しみとに濡れています。今日は雨が煙るように降って肌さむく、火鉢に親しみながらぼんやりしていました。あなたのことを思います。軽ろいところを捨てて重たくなり、甘えるのも脱して真実なるものへ深入りして下さい。あなたの成長をいのる。
[#地から2字上げ](久保正夫宛 二月八日。京都岡崎より)

   隣人としての共棲

 私はこの二十日ばかり病気で寝ています。根気がなくて御無沙汰になってすみませんでした。堪忍して下さい。正夫さんの「完全の鏡」は確かに受け取りました。また、長らく拝借していた「朝」と「イミテイション、オブ、クライスト」とを二、三日前に送り出しました。こちらで私のほか、数人読みました。まことにありがとうございました。私はこの頃毎日発熱して食事が進まないので物憂い心地で暮らしております。今日は根気がありませぬか
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