けた願《がん》の一つとして成就《じょうじゅ》しなかったのはありません。
成経 しかしここは紀州ではなし、那智《なち》の滝もないではありませんか。
康頼 神はどこにでもいられます。わしがあの奥深い森を選んだのは、あたりの様子がどことなしに那智《なち》の御山《みやま》に似ているからです。あれは本宮《ほんぐう》、これは新宮《しんぐう》、一の童子《どうじ》、二の童子とかりに所を定《き》め、谷川の流れを那智の滝と思い、そこに飛滝権現《ひりゅうごんげん》を形ばかりにまつりたてまつったのでございます。どんなにさびしい孤島《ことう》に流されても、拝する神のないのは堪《た》えられません。あの鬼《おに》のような清盛だって厳島明神《いつくしまみょうじん》に帰依《きえ》しているではありませんか。
成経 (あざけるように)ではわしは天魔《てんま》でもまつりましょうよ。そしてあの清盛を呪《のろ》ってやりましょう。
康頼 わしはこの間も権現様に通夜《つや》をして祈りました。そして祈り疲《つか》れてうとうとしました。するとわしは不思議な夢を見たのです。沖《おき》のほうから潮風《しおかぜ》に吹かれて木の葉が二枚ひらひらと飛んできて、わしの袖《そで》にかかりました。それを手に取ってみると御熊野《みくまの》の山にたくさんある栴《なぎ》の葉なのです。よく見るとその葉に歌が一首書いてあるのです。「ちはやふる神に祈りのしげければ、などかみやこへかえらざるべき」とありあり読みました。あゝありがたいと思ってその栴《なぎ》の葉をいただいて目がさめたのです。
成経 それはあなたがいつも都へ帰りたい帰りたいと思っているから、そんな夢を見たのでしょう。
康頼 しかしありありと歌まで覚《おぼ》えているのです。霊夢《れいむ》に相違《そうい》ありません。たとえそうでなくっても、わしはそうと信じたいのです。
成経 それであの卒都婆《そとば》流しを思いついたのですね。
康頼 (さびしそうに)はい。
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     間。
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成経 俊寛殿はどこへ行きましたか。
康頼 きょうも熊野権現《くまのごんげん》にお参りなされました。
成経 あの人は神など拝むような人ではなかったが。
康頼 人間は苦しい目にあうと神を拝むようになるものですよ。今でも時々こんなことをしたって何になるなど
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