た。いや、それよりもかような寂寞《せきばく》と欠乏とに耐《た》えてもなお生《せい》を欲するものとは思わなかった。わしがもし死を願うことができたなら! わしはたびたびそう思うのです。もしわしがわしのただ一つの希望を失ってしまったら、も一度|都《みやこ》へ帰れるかもしれないという、かすかな、何のよりどころもないこの空想を。(悲しげに)あゝこの空想を[#「空想を」は底本では「空|想《えが》を」]描《えが》く勇気をもはや失ってしまったなら、わしは泥《どろ》のようにくずれて死んでしまうであろうと。そしてそのほうがかえって幸福かもしれないと。けれど浜辺《はまべ》に立ってたまさかに遠くの沖をかすめて通る船の影を見ると、わしには再び希望が媚《こ》びるように浮かんでくるのです。わしをからかうように、じらすように、幸福をのせてゆく船、やがて恋しいふるさとの岸辺《きしべ》に着く船、疲《つか》れた旅人はあたたかい団欒《まどい》に加わるうれしさに船を急がせているのだろう。
康頼 (顔をおおう)妻や子のことを考えるのは恐ろしい。
成経 わしの子はもう髪《かみ》を結《ゆ》うほどになっているはずです。別れる時に三つだったから。乳母《うば》の六条の膝《ひざ》にのって、いつも院の御所《ごしょ》に出仕《しゅっし》する時と同じように、何もしらないで片言《かたこと》を言ってわしに話しかけていました。門の外にはいかめしく武装した清盛《きよもり》の兵士らがわしの車を擁《よう》して待っていた。彼らのある者は剣《つるぎ》や槍《やり》で扉《と》をこわれるほどたたいて早く早くと促《うなが》していた。妻はまっさおな顔をしてふるえていた。わしの袖《そで》をつかんで、おゝ妻は妊娠《にんしん》だったのだ。わしは無礼《ぶれい》な野武士らの前にひざまずいて、乞食《こじき》のごとくに哀願《あいがん》した。ただ出発をほんの五分間延ばすことを。ただ一口妻をはげます言葉をかけてやるために、そして伜《せがれ》の頭髪《かみ》を別れのまえにも一度なでてやるために!
康頼 あゝ、わしがあの時に受けた屈辱《くつじょく》を思えば胸が悪くなる!
成経 野武士らはわしの懇願《こんがん》を下等《かとう》な怒罵《どば》をもって拒絶した。そして扉を破って闖入《ちんにゅう》し、武者草鞋《むしゃわらじ》のままでわしの館《やかた》を蹂躪《じゅうりん》した。わしはすぐ
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