出家とその弟子
倉田百三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)叔母上《おばうえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)煙突|掃除人《そうじにん》
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この戯曲を信心深きわが叔母上《おばうえ》にささぐ
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極重悪人唯称仏《ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ》。 我亦在彼摂取中《がやくざいひせっしゅちゅう》。
煩悩障眼雖不見《ぼんのうしょうげんすいふけん》。 大悲無倦常照我《だいひむげんじょうしょうが》。
(正信念仏偈)
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出家とその弟子
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序曲
死ぬるもの
――ある日のまぼろし――
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人間 (地上をあゆみつつ)わしは産まれた。そして太陽の光を浴び、大気を呼吸して生きている。ほんとに私は生きている。見よ。あのいい色の弓なりの空を。そしてわしのこの素足がしっかりと踏みしめている黒土を。はえしげる草木、飛び回る禽獣《きんじゅう》、さては女のめでたさ、子供の愛らしさ、あゝわしは生きたい生きたい。(間)わしはきょうまでさまざまの悲しみを知って来た。しかし悲しめば悲しむだけこの世が好きになる。あゝ不思議な世界よ。わしはお前に執着する。愛すべき娑婆《しゃば》よ、わしは煩悩《ぼんのう》の林に遊びたい。千年も万年も生きていたい。いつまでも。いつまでも。
顔《かお》蔽《おお》いせる者 (あらわる)お前は何者じゃ。
人間 私は人間でございます。
顔蔽いせる者 では「死ぬるもの」じゃな。
人間 私は生きています。私の知っているのはこれきりです。
顔蔽いせる者 お前はまたごまかしたな。
人間 私の父は死にました。父の父も。おゝ私の愛する隣人の多くも死にました。しかし私が死ぬるとは思われません。
顔蔽いせる者 お前は甘えているな。
人間 (やや躊躇《ちゅうちょ》して後)わたしは恐れてはいます。もしや死ぬのではなかろうかと。……あゝあなたは私の心を見抜きましたな。ほんとうは私も死ぬのだろうと思っているのです。私の祖先の知恵ある長老たちも昔から自分らのことをモータルと呼んでいますから。
顔蔽いせる者 それはほんとうじゃ。禽獣《きんじゅう》草木魚介の族と同じく死ぬるものじゃ。
人間 あなたはどなたでございますか。その威力ある言葉を出すあなたは?
顔蔽いせる者 わしは死なざるものに仕える臣じゃ。お前はわしを知らぬかの。
人間 知っているような気もするのですが、……いゝえ、やはり知りません。
顔蔽いせる者 お前はたびたびわしの名を呼ぶようじゃ。ことにこのごろはあまりたびたびなので煩《わずら》わしいほどじゃ。
人間 ではもしやあなたは? おそれながらお顔蔽いをとって一度だけどうぞお顔をお見せくださいませ。
顔蔽いせる者 わしはモータルには顔を見せぬものじゃ。死ぬるものには。
人間 それはなぜでございます。
顔蔽いせる者 モータルを見るとわしは恥ずかしくて死ぬるからじゃ。
人間 死ぬる者という言葉には軽蔑《けいべつ》の意味が含まっているように聞こえます。
顔蔽いせる者 死ぬのは罪があるからじゃ。罪のないものはとこしえに生きるのじゃ。「死ぬる者」とは「罪ある者」と同じことじゃ。
人間 では人間は皆罪人だとおっしゃるのでございますか。
顔蔽いせる者 皆悪人じゃ。罪の価は死じゃ。(消ゆ)
人間 今のは彼れだな。それに違いない。いったいあれは幻だろうか実在だろうか。わしは初めは無論幻だと思っていた。けれどだんだんそうは思われなくなりだした、だってあの恐ろしい破壊力は、あまりはっきりしているもの。実在だとしていったいあれは何者だろう。私はあれの正体が見たい。それを知りさえしたらこわくはない。私はあの恐ろしい火と水との正体を知ってからは、彼ら自身の法則でかえって彼らを使役して私の粉《こな》ひき場の車をまわさせたり竈《かまど》をたかせたりしている、わしは彼の法則を知りたい。彼の本体をつかみたい。でなくてはわしの生活はいつも脅かされるから。あれを知るようになったのは私の不幸だ。しかし私の知恵の成長でもある。あゝ恐ろしい彼よ!
顔蔽いせる者 (あらわる)お前はまたわしを呼んだな。
人間 私はあなたの顔が見たい。
顔蔽いせる者 ゆるされぬ。
人間 どうあっても。
顔蔽いせる者 その欲望はお前の分に過ぎている。お前の目に不浄のある限りは。
人間 弓矢にかけても。
顔蔽いせる者 あわれなものよ!
人間 (手をのばして顔蔽いをとろうとする)
顔蔽いせる者 その手に禍《わざわ》いあれ!(遠雷きこゆ)
人間 (ひざまずく)
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幻影の列あらわる。
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顔蔽いせる者 見よ。
人間 鳥や獣やはうものの列がすぎる。鷲《わし》は鳩《はと》を追い、狼《おおかみ》は羊をつかみ、蛇《へび》は蛙《かえる》をくわえている。だがあの列の先頭に甲冑《かっちゅう》をかぶり弓矢を負うて、馬にのって進んでいるのは人間のようだ。
顔蔽いせる者 彼は全列を率いている。
人間 あれは征服者だ。
顔蔽いせる者 そして哀れなもののなかの最も哀れなものだ。
人間 あ、馬に拍車をあてた、全列は突進しだした。(凶暴なる音楽おこる)まるであらしのように。あんなに急いでどこに行くのだろう。
顔蔽いせる者 滅亡へ。すべての私を知らないものの行くところへ。
人間 おゝ。
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列通過す。あらしのごとき音楽次第におだやかになり、静かに夢のごとき調子となる。新しき幻影現わる。
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顔蔽いせる者 見よ。
人間 若い男と女だな。男はたくましい腕の中に女を抱いている。そして女は男の胸に顔をうずめている。玉のような肩に黒髪がふるえている。甘いさざめきに酔っているのだろう。
顔蔽いせる者 よく見よ。
人間 (熟視す)あゝ泣いているのだ。男は女をはなしてため息をついている。さびしそうな顔。
顔蔽いせる者 幸福の破れるのを知りかけているのだ。
人間 あなたを呼んでいるのではありませんか。
顔蔽いせる者 わしに気がつきかけているのじゃ。しかし、わしを呼ぶのを自らさけているのじゃ、自分をいつわっているのじゃ。
人間 男はふたたび女を抱こうとしました。けれど女はこのたびは突きのけました。そして男を呪《のろ》うています。男は女を捕えました。無理に引っぱって崖《がけ》のそばに行きました。……あゝあぶない。……(叫ぶ)あッ。
顔蔽いせる者 わしをまっすぐに見ないものの陥るあやまちじゃ。(音楽やみ、幻影消ゆ)
人間 私はあなたをみとめています。あなたをまっすぐに見ています。あなたの本体を知りたいと願っています。
顔蔽いせる者 小猿《こざる》の知識でな。ものの周囲をまわるけれど決してものの中核にはいらない知識でな。
人間 私はあなたの力を認めます。あなたの破壊力を。あなたは何のために、ものをこわすのですか。
顔蔽いせる者 それはこわれないたしかなものを鍛え出すためじゃ。
人間 私はそのたしかなものを求めます。私があなたを知って以来あなたにこわされないものを捜しています。
顔蔽いせる者 見つかったかな。
人間 まだ。たしかなと思ったものはみなあなたがこわしてしまいましたから。征服欲も友情も、恋も学問も。
顔蔽いせる者 こわれるものはみなこわすのがわしの役目じゃ。(間)
人間 たしからしいものを見つけました。今度は大丈夫のつもりです。
顔蔽いせる者 何ものじゃ。
人間 子供です。たとえ私は衰えて死滅しても、わたしの子供は新しい力で生きるでしょう。私の欲望を子供の魂のなかに吹きこみます。
顔蔽いせる者 お前はまだ知らないな。
人間 え。
顔蔽いせる者 お前のむすこは死んだぞ。
人間 えっ。(まっさおになる)そんなことがあるものか。
顔蔽いせる者 凶報が来るのにまもあるまい。
人間 達者で勉強しているという手紙が来たのはけさのことです。
顔蔽いせる者 午《ひる》すぎに死んだのだ。
人間 うそだ。
顔蔽いせる者 (沈黙)
人間 (熟視す)あゝあなたの態度にはたしかさがある。(絶望的に)だめだ!
顔蔽いせる者 さようなら。
人間 (あわてる)待ってください。せがれは病気をかくしていたのですね。あわれな父に心配させまいと思って。
顔蔽いせる者 組でいちばん元気だった。
人間 決闘しましたか。無礼な侮辱者を倒すために。あれは名誉を重んじたから。
顔蔽いせる者 いいや。
人間 ではどうして?
顔蔽いせる者 煙突から落ちたのだ。
人間 (失神したるがごとく沈黙)
顔蔽いせる者 二分間前まで日あたりのよい芝生《しばふ》の上で友人とたのしく話していた。その時友の一人がふとした思いつきで、たれか煙突にのぼって見せないかと言った。お前の子はこれもほんの気まぐれに、一つは友だちを笑わせようという人のいいおどけた心で、快活に、「やってみよう」といってのぼりはじめた。仲間はその早わざをほめた。ところで、てっぺんのところの足止めの釘《くぎ》が腐っていたのだ。
人間 おゝ。
顔蔽いせる者 人はその日の午後に来た道楽者の煙突|掃除人《そうじにん》をしあわせものだと言っていた。
人間 (うめくように)芸術だ。たしかなものは芸術です。わたしはわたしの涙で顔料を溶かします。私の画布の中にこわれないたしかなものを塗りこみます。
顔蔽いせる者 ここまで来てはもうたしかなともたしかにないともわしは言わない。だが、お前はお前の病気のことを忘れはしまいな。
人間 片時も。あなたが私の健康を奪ってしまったのが私の不幸のはじまりでした。そしてあなたを知るはじまりでした。それからというもの私がどれほど苦しんでいるか!
顔蔽いせる者 お前の体温がもう二度高くなればお前は刷毛《はけ》を捨てねばなるまい。
人間 おゝ。
顔蔽いせる者 それは起こり得ぬ事だろうか。今だってお前は毎日熱が出るのではないか。
人間 祈りです。たしかなものは祈りです。私は寝床のなかで身動きもできなくとも目をつむって祈ることができます。
顔蔽いせる者 一つの打撃がお前の頭の調和を破れば、お前は今まで祈った口でたわいもない囈言《うわこと》を語り、今まで殊勝に組み合わせた手できたならしいことを公衆の前にして見せるかもしれない。あの動物園の猿《さる》のように。
人間 (よろめく)そんなことはあり得ぬことだ。
顔蔽いせる者 ありうることだ。現にお前たちの仲間はこのごろ盛んに殺し合っているようだが、そのような白痴が幾人できたか知れない、――
人間 あなたはあまり残酷だ。
顔蔽いせる者 お前の価に相当しただけ、――
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鳥獣ら無数の生物の群れのおらぶ声起こる。
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人間 (おののきつつ)あの声は?
顔蔽いせる者 お前の殺した生物の呪詛《じゅそ》だ。
人間 あゝ。(頭をおさえる)
顔蔽いせる者 お前は姦淫《かんいん》によって生まれたものだ。それを愛の名でかくしてはいるが。
人間 私の罪を数えたてるのはよしてください。
顔蔽いせる者 限りがないから。――
人間 私は共食いしなくては生きることができず、姦淫しなくては産むことができぬようにつくられているのです。
顔蔽いせる者 それがモータルの分限なのだ。
人間 (訴えるように)人間の苦痛を哀れんでください。
顔蔽いせる者 同情するのはわしの役目ではない。
人間 なぜ? あゝなぜでござ
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