に受け取って、それを愛して来た。それに事《つか》えて来た。運命にそむく心と戦って来た。そうだ。わしは墓場に行くまでこのたたかいをつづけねばならない。もう、ながいことではない。もうじきだ。休戦のラッパが鳴るのは。その時私は審判の前に立つのだ。一生を悪と戦った、勇ましい戦士として。霊の軍勢の虚空《こくう》を遍満するそのなかに。そして冠が私の頭に載せられる。仏様の前にひざまずいて私がそれをうける。(だんだん顔が輝いて来る)その日から私はあの尊い聖衆《しょうじゅ》のなかの一人に加えられるのだ。なんという平和であろう。なんという光栄であろう。朝夕、仏様をほめる歌をうたって暮らすのだ。その時はもう私の心に罪の影さえおとずれない。そして、(涙をこぼす)この世に苦しんでいる無類のふしあわせな人たちを摂取することができるのだ!(間)おゝ、不安よ、去れ。(黙祷《もくとう》する)
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唯円と勝信と登場。
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唯円 (手をつく、重々しく)御気分はいかがでございますか。
親鸞 もう近づいたようだ。わしは兆《きざし》を感じる。
唯円 (何かいおうとする)
親鸞 (さえぎる)いや。もう避くべからざるものを避けようとすまい。運命を受け取ろう。お互いに大切なことのみ言おう。
唯円 …………
親鸞 わしはもう覚悟している。
唯円 (苦しく緊張する)この上は安らかな御臨終を…………
勝信 (泣く)
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親鸞、唯円沈黙。勝信の泣き声のみ聞こえる。やがてその声もやみ、一座|森《しん》とする。
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親鸞 仏様がお召しになるのだよ。この世の御用がつきたのだよ。この年寄って病み耄《ぼ》けているわしを、この上この苦しい世のなかにながらえさせるのをふびんとおぼしめしてくださるのであろう。わしももうずいぶん長く生きたからな。九十年――といえば人間に許されるまれな高齢だ。もうこの世に暇《いとま》をつげてもいい時だ。(考える)
唯円 お師匠様の百年《ももとせ》の御寿命をいのりたてまつるのでございますけれど…………
親鸞 それが正直な人間の情《こころ》だよ。恥ずかしながらこのわしも、この期《ご》に及んでもまだ死にともないこころが残っている、それが迷いとはよく知っているのだがな。浅ましいことじゃ。わしは一生の間|煩悩《ぼんのう》の林に迷惑し、愛欲の海に浮沈しながらきょうまで来た。絶えず仏様の御名を呼びながら、業《ごう》の催しと戦って来た。そして墓場にゆくまでそのたたかいをつづけねばならないのだ。唯円、この大切な時に私のために祈ってくれ。わしはそれを必要とする。わしは心をたしかに保たなくてはならない。一生に一度の一大事をできるだけ、恥を少なくして過ごすためにな。わしはそのために祈っている。空澄み渡る月のように清らかな心で死にたい。
唯円 仏様にお任せあそばしませ。私はあなたのために心をこめて祈っています。(力を入れて)めでたく往生《おうじょう》の本懐をお遂げあそばすよう。
親鸞 死はわしの長い間のねがいだったのだ。ただ一つの希望だったのだ。墓場の向こうに私を待つ祝福をわしはどんなに夢みたことだろう。いまその夢が実となるべき時が来た。めでたい時が。(間)昨夜、私は祈りながら眠りに落ちた。眠りはひとつのありがたい夢で祝された。この世ならぬ、荘厳《しょうごん》と美とに輝く浄土のおもかげがわしの前にひらかれた。わしの魂は不思議な幸福で満たされた。地上の限りを越えたその幸福をわしはなんと言って表わしていいかわからない。あの阿弥陀経《あみだきょう》のなかに「諸上善人倶会一処《しょじょうぜんにんくえいっしょ》」というところがあるね。わしは多くの聖衆《しょうじゅ》の群れにかこまれた。みな美しい冠をかぶっていらしたよ。わしはもったいなくて頭が下がった。わしもきょうからその列の中に加えられるのだと聞いたとき、わしはうれしさに涙がこぼれた。と見るとわしの頭にも同じような美しい冠が載せてあるのだ。その時|虚空《こくう》はるかに微妙《みみょう》なる音楽がきこえ始めた。聖衆の群れはそれに合わせて仏様を讃《ほ》める歌をうたわれた。すると天から花が降って来て、あたりは浄《きよ》い香《かお》りに満ちた。わしは金砂をまいた地の上に散りしく花を見入りつつこれこそあの「曼陀羅華《まんだらげ》」というのであろうと思った。その時私は目がさめたのだ。
唯円 なんという尊い夢でございましょう。
勝信 美しく輝く冠ほど聖人《しょうにん》様にふさわしいものはございますまい。
親鸞 さめてから後も私の心はその幸福のなごりでおどっていた。けれどそのときからわしに一つの兆《
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