とかなしみとに対するあくがれがあった。話せば取り合われないか、あるいは軽蔑《けいべつ》されるかだから、私はその心持ちをひとりで胸の内に守っていた。そのさびしさは私の心の内でだんだんとひとには知れずに育って行った。私がいよいよ山を下る前ごろにはそのさびしさで破産しそうな気がしたくらいだったよ。
唯円 お師匠様。私はこのごろなんだかさびしい気がしてならないのです。時々ぼんやりいたします。きょうもここに立って通る人を見ていたらひとりでに涙が出て来ました。
親鸞 (唯円の顔を見る)そうだろう。(間)お前は感じやすいからな。
唯円 何も別にこれと言って原因はないのです。しかしさびしいような、悲しいような気がするのです。時々は泣けるだけ泣きたいような気がするのです。永蓮《ようれん》殿はからだが弱いせいだろうと言われます。私もそうだろうかとも思うのです。けれどもそうばかりでもないように思われます。私は自分の心が自分でわかりません。私はさびしくてもいいのでしょうか。
親鸞 さびしいのがほんとうだよ。さびしい時にはさびしがるよりしかたはないのだ。
唯円 今にさびしくなくなりましょうか。
親鸞 どうだかね。もっとさびしくなるかもしれないね。今はぼんやりさびしいのが、後には飢えるようにさびしくなるかもしれない。
唯円 あなたはさびしくはありませんか。
親鸞 私もさびしいのだよ。私は一生涯《いっしょうがい》さびしいのだろうと思っている。もっとも今の私のさびしさはお前のさびしさとは違うがね。
唯円 どのように違いますか。
親鸞 (あわれむように唯円を見る)お前のさびしさは対象によって癒《いや》されるさびしさだが、私のさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ。人間の運命としてのさびしさなのだ。それはお前が人生を経験して行かなくてはわからない事だ。お前の今のさびしさはだんだん形が定まって、中心に集中して来るよ。そのさびしさをしのいでからほんとうのさびしさが来るのだ。今の私のようなさびしさが。しかしこのような事は話したのではわかるものではない。お前が自ら知って行くよ。
唯円 では私はどうすればいいのでしょうか。
親鸞 さびしい時はさびしがるがいい。運命がお前を育てているのだよ。ただ何事も一すじの心でまじめにやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それ
前へ 次へ
全138ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング