ません。ほんとうでなければなりません。私は気がつきました。前から知っていたように、私のものになりました。まったく私の所有になりました。ありがたい、泣きたいような気がして来ました。
親鸞 それはほんとうです。私は吉水《よしみず》で法然聖人《ほうねんしょうにん》に会った時、即座にその救いが腹にはいりました。あなたの今の感じのとおりです。さながら忘れていたものを思い出したようでした。まるで単純な事です。だれでもこの自分に近い、平易な真理がわからないのが不思議でした。私たちの魂の真実を御覧なさい。私たちは愛します。そしてゆるします。他人の悪をゆるします。その時私たちの心は最も平和です。私たちは悪い事ばかりします。憎みかつ呪《のろ》います。しかしさまざまの汚れた心の働きの中でも私たちは愛を知っています。そしてゆるします。その時の感謝と涙とを皆知っています。私たちの救いの原理も同じ単純な法則です。魂の底からその単純なものがよみがえって来るのです。そして信仰となるのです。
慈円 あなたは長い間正直に苦しみなさいました。自分の心を直視なさいました。あなたの心の歩みは他力《たりき》の信仰を受け取る充分な用意ができていたのです。
良寛 前のものからあとのものに移る必然性がある時には、たやすいほどな確かさがまるで水の低きに流れるようにして得られるものでございますね。
親鸞 あなたの信心は堅固なものだと存じます。
左衛門 私は今夜はうれしい気がします。この幾年私の心を去っていた平和が返って来たようなここちがいたします。(涙ぐむ)
お兼 ほんとにそうですわ。もうずいぶん長い間あなたが潤うた、和らかな心でいらしたことはありませんわ。
親鸞 あなたは自分を悪に慣らそうとつとめているとおっしゃいましたね。
左衛門 私は生まれつき気が弱くていけないのです。それでは渡世に困るから、もっと悪人にならねばならぬと思ったのでした。
お兼 それで猟を始めたり、鶏をつぶしたり、百姓《ひゃくしょう》とけんかしたりするのでございますよ。
親鸞 私はあなたの心持ちに同情します。しかしそれは無理な事です。あなたは「業《ごう》」ということを考えたことはありませぬか。人間は悪くなろうと努めたとて、それで悪くなれるものではありません。また業に催されればどのような罪でも犯します。あなたは無理をしないで素直にあなたの心のほんとう
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