倒れになるものもある。また思いも設けぬ偶然の出来事で、途方もない、ほとんど信じられぬような死に方をするものもある。やがて愛らしい花嫁となる処女《むすめ》が、祝言《しゅうげん》の前晩に頓死《とんし》するのもある、母親の長い嘆きとなるのも知らずに。麻痺《まひ》した心《しん》の臓のところに、縫いかけた晴れ着をしっかり抱き締めたりしてな。あるいはつい先刻まで快活に冗談など言いながら働いていた大工が、踏みはずして屋根から落ちて死ぬのもある。その突然で偶然なことは涙をこぼす暇さえも与えないように残酷なのがある。皮肉な感じさえ起こさせるのがある。あの観経《かんぎょう》にある下品往生《げぼんおうじょう》というのは、手は虚空《こくう》を握り、毛穴からは白い汗が流れて目もあてられぬ苦悶《くもん》の臨終だそうな。恐ろしいことじゃ。業《ごう》によっては何人がそのような死に方をするかもはかられぬのじゃ。だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証《あかし》はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心《しょうじん》を去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくれ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。もしこの世が浄土で、まだひとたびも偽りというものが存在したことがないならば、だれも疑うという事は無いであろう。信じている心には祝福がある。疑うている心には呪詛《じゅそ》がある。もし魂の影法師が映るものならば、鬼の姿でも映るのであろう、信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。(間、声が少しく高くなる)わしは今不思議な地位に立っている。わしの後ろには九十年の生涯《しょうがい》の光景が横たわっている。そして前にはあの世の予感が満ちている。わしのたましいは、最も高く挙《あ》げられ、そして驚くべき広がりに達している。魂の壮観!(夢幻的になる)霊はいま高く高く天翔《あまがけ》って、人間界の限りを越えようとしている。墓場のあちらとこちらとの二つの世界の対立と、その必然の連絡と
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