自分らの恋はより尊いものになったと思い、あとではさびしさに堪えかねて、泣いて恋人のために祈るようならば聖なる恋と言ってもいい。そのとき会わなかったことは、恋を薄いものにしないで、かえって強い、たしかなものにするだろう。それが祝福というものだ。
唯円 私のして来たことは聖《きよ》い恋の反対でした。自分の楽しさのために他人を傷つけていました。
親鸞 自分自身に呪《のろ》いをおくらないとは、自分の魂の安息を乱さないことだ。これが最も悪いことで、そして最も気のつかないことなのだ。お前は眠れないね。お前の心はうろうろして落ち付かないね。お前はやせて、色目も青ざめている。散乱した相《すがた》じゃ。お前は自分をみじめとは思わないか。(あわれむように唯円を見る)
唯円 (涙を落とす)浅ましいとさえ思います。私は宿無し犬のようにうろうろしています。(自分をあざけるように)きょう、松《まつ》の家《や》のお内儀《かみ》に、泥棒猫《どろぼうねこ》だとののしられました。私の小指ほどの価もないあの鬼ばばに!
親鸞 そのような言葉使いをお恥じなさい。お前はまったく乱れている。自分を尊敬し、自分の魂の品位を保たなくては聖なる恋ではない。我れとわが身をかきむしるのはこの世ながらの畜生道《ちくしょうどう》だ。柔和忍辱《にゅうわにんにく》の相が自然に備わるべき仏の子が、まるで狂乱の形じゃ。
唯円 おゝ。私はどうしましょう。私は自分の影を見失いそうです。(動乱する)
親鸞 待て、唯円。も一ついちばん本質的なのが残っている。お前はお前の恋人に呪いをおくってはならない。
唯円 私があの女を呪うのですって。いのちにかけても慕うている恋人を?
親鸞 そうだ。よくお聞き。唯円。そこに恋と愛との区別がある。その区別が見えるようになったのは私の苦しい経験からだ。恋の渦巻《うずまき》の中心に立っている今のお前には、恋それ自身の実相が見えないのだ。恋の中には呪いが含まれているのだ。それは恋人の運命を幸福にすることを目的としない、否むしろ、時として恋人を犠牲にする私《わたくし》の感情が含まれているものだ。その感情は憎みと背を合わせているきわどいものだ。恋人どうしは互いに呪いの息をかけ合いながら、互いに祝していると思っていることがあるのだ。恋人を殺すものもあるのだ。無理に死を強《し》うるものさえある。それを皆愛の名によってする
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