である。精神的理想を主張するものは、その意味で一方必ず社会改革の根本的運動に乗り出さずにはいられなくなる。そしてこのことは社会のすべての人たち、われわれも、青年も、娘たちもひとしくその義務をもっているものだ。大学出の青年、農村の青年たちの結婚の物質的基礎のことを考えると暗くならずにはいられぬ。この改革の努力を伴わずに理想だけを要求してもまだ通らない。しかしそれだからといって、社会改革ができるまでは、恋愛の理想をまげたり、低めたりしてもいいということはない。困難な現実の中でどこまで精神の高貴と恋愛の純情とをつらぬきうるかというところに、人間としての戦い、生命の宝を大事にするための課題があるのである。環境にエキスキュースを求めるのはややもすれば、精神的虚弱者のことであるのを忘れてはならぬ。恋愛は、ことに女性にとって、その人生の至宝の、三つとはない貴重なものである。その恋愛にできるだけ高い、大きな理想を盛らないことは実に惜しむべきことである。私は心ゆく限り、恋の願いに濃く、深く、あらんことをむしろ娘たちにのぞみたい。それは日本の娘の特徴でもあるからだ。恋を雑に、スマートに、抜け目なく、取り扱わないようにくれぐれもいましめたい。結婚後の恋愛は蜜月や、スイートホームの時期をへて、次第に、真面目な地についた人生の営みのなかにはいってゆく。こうして夫婦愛が恋愛の健全な推移としてあらわれてくる。それは恋愛の冷却というべきものではなくして、自然の飽和と見るべきものだ。少なくともそれはニイチェのいうような、一層高いものに、転生[#「転生」に傍点]するための恋愛の没落[#「没落」に傍点]なのだ。そこには恋愛のような甘く酔わせるものはないが、もっと深いかみしめらるべき、しみじみとした慈味があるのだ。円満な、理想的な夫婦は増鏡にたとえ、松の緑にたとえ、琴の音にたとえたいような尊い諧和なのだ。子どものある、落ち着いた夫婦は実に安泰な美しいものだ。子どもがないなら、共同の仕事、道、理想をもって、子どもと見るがいい。またこの時期の妻らしき、母らしき夫人は女性美の最も豊かな、円熟した感じのあるものだ。この時期に達してからの夫以外の男性との恋愛は、女性にとっては、そのたましいの品性と平和とを傷つける地上の最も醜き、呪うべきものである。この意味でニイチェのいわゆる一回性《アインマールハイト》の法則は、さまざまの現実的事情あるにもかかわらず、永遠に恋愛と結婚との最も祝福された真理であるといわねばならぬ。[#地から2字上げ](一九三四・一一・二六)

     四 恋愛――結婚(下)

 恋愛のような人生の至宝に対しては、私たちはでき得る限り、現実生活の物的、便宜的条件によって、妥協的な、平板なものにすることをさけて、その精神性と神秘性とを保存し追究するようにしなければならぬ。心霊の高貴とか、いのち[#「いのち」に傍点]の不思議とかいうようなものは、物質を超越しようとする志向の下に初めてなりたつ事柄で、物的条件をエキスキュースにしだしては死滅してしまうのである。だから前回に述べたような現実の心づかいは実にやむを得ない制約なので、恋愛の思想――生粋精華はどこまでも恋愛の法則そのものに内在しているのだ。だからかわいたしみったれた考えを起こさずに、恋する以上は霞の靉靆《あいたい》としているような、梵鐘の鳴っているような、桜の爛漫としているような、丹椿の沈み匂うているような、もしくは火山や深淵の側に立っているような、――つねに死と永遠と美とからはなれない心霊界においての恋を生きる気でなければならぬ。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
おん身はおん身の愛する者のために死にあたふや?
しかり、あたふ。我が愛する者のために死なんはいと大いなる幸福なり。よろこびてこそ死なめ!
[#ここで字下げ終わり]
 これはイタリアの恋愛詩人ダヌンチオの詩の一句である。
[#ここから2字下げ]
畏きや時の帝を懸けつれば音のみし哭かゆ朝宵にして
[#ここで字下げ終わり]
 これは日本の万葉時代の女性、藤原夫人の恋のなやみの歌である。彼女は実に、××に懸想し奉ったのであった。
[#ここから2字下げ]
稲つけばかがる我が手を今宵もか殿のわくごがとりて嘆かな
[#ここで字下げ終わり]
 これは万葉時代の一農家の娘の恋の溜息である。
[#ここから2字下げ]
如何にせんとも死なめと云ひて寄る妹にかそかに白粉にほふ
[#ここで字下げ終わり]
 これは大正時代の、病篤き一貧窮青年の死線の上での恋の歌である。
 私は必ずしも悲劇的にという気ではない。しかし緊張と、苦悩と、克服とのないような恋は所詮浅い、上調子なものである。今日の娘の恋は日に日に軽くなりつつある。さかしく、スマートになりつつある。われらの祖先の日本娘はどんな恋をしたか、も少し恋歌を回顧してみよう。
[#ここから2字下げ]
言にいでて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞かへたりけり
思ふこと心やりかね出で来れば山をも川をも知らで来にけり
冬ごもり春の大野を焼く人は焼きたらぬかもわが心焼く
かくのみにありけるものを猪名川の奥を深めて吾が念へりける
[#ここで字下げ終わり]
 死ぬほどの恋も容易に口に出さず、逢いたくなっては夢遊病者のように山川を越え、思いに焦げては大野も燃えよ、忠実でもなかった人を自分の方では胸の奥底から思っていた……すべて緊きしまり、濃く、強く、思いこんでいる。
 愛するというのも早ければ別れるのも軽く、少し待たせれば帰ってしまい、逢びきの間にも胸算用をし、たといだます分でもだまされはせぬ――こういった現代の娘気質のある側面は深く省みられねばならぬ。新しさ、聡明さとはそんなものではないはずだ。新しさとは今の日本の時代ではむしろ国ぶりに復帰することだ。恋から恋にうつるハリウッドのスターは賢くはない。むしろ愚かだ。何故なら恋の色彩は多様でもいのち[#「いのち」に傍点]と粋とは逸してしまうからだ。真に恋愛を味わうものとは恋のいのち[#「いのち」に傍点]と粋との中心に没入する者だ。そこでは鐘の音が鳴っている。それは宗教である。享楽ではない。
 清姫の前には鐘があった。お七の前には火があった。そして橘媛の前には逆まく波があった。
 恋愛の宝所はパセチックばかりではない。恋の灼熱が通って、徳の調和に――さらに湖のような英知と、青空のような静謐《せいひつ》とに向かって行くことは最も望ましい恋の上昇である。幾ら上って行ってもそのひろがりは詩と理想と光との世界である。平板な、散文の世界ではない。それがいのち[#「いのち」に傍点]というものの純粋持続の特徴である。箱のような家に住み、紡績ばかり著て生きても夢と、詩とは滅びることがない。それが精神生活、たましいの異境というものだ。
 燃えるような恋をして、洗われる芋のように苦労して、しかも笛と琴とのように調和して、そしてしまいには、松に風の沿うように静かになる。それが恋愛の理想である。
 ダンテを徳に導いた淑女ベアトリーチェ。ファウスト第二部の天上のグレーチヘン。
 これらは不幸な、あるいは酬いられぬ恋であったとはいえ、恋を通して人間の霊魂の清めと高めとの雛型である。古くはあるが常に新しい――永遠の物語である。
 恋には色濃い感覚と肉体と情緒とがなくてはならぬ。それは日本の娘の特色である。この点あの歌舞伎芝居に出る娘の伝統を失ってはならぬ。シックな、活動的な洋装の下にも決してこの伝統の保存と再現とを忘れるな、かわいた、平板な、冷たい石婦のような女になってはならぬ。生命の美と、匂いと、液汁とを失っては娘ではない。だが牢記せよ、感覚と肉体と情緒とを超越して高まろうとするあるものを欠いた恋は低卑である。このあるもの、霊の酵母がないと防腐剤がない肉のように、恋は臭いを発するようになる。情緒の過剰は品位を低くする。嬌態がすぎると春婦型に堕ちる。ワイニンゲルがいうように、女性はどうしても母型か春婦型かにわかれる。そして前にいったように、恋愛は娘が母となるための通路である。聖母にまで高まり、浄まらなければならない娘の恋が肉体と感覚をこえんとする要請を持っていなければならないのは当然である。この意味でプラトニックな要請を持っていないものは処女ではない。それが処女の魅力である。感覚と肉体とにいのち[#「いのち」に傍点]を吹きこむ秘密である。造化のたくみ[#「たくみ」に傍点]の微妙さにはただ随喜するよりない。
 お河童にして、琴の爪函を抱えて通った童女が、やがて乙女となり、恋になやみ、妻となり、母となって、満ち足りて、ついには輝く銀髪となって、あの高砂の媼《おうな》と翁のように、安らかに、自然に、天命にゆだねて思うことなく静かにともに生きる――それは尊い明け暮れである。これをこそ浄福というのだ。
 聖フランシスと聖クララの晩年の生活。
[#ここから2字下げ]
男ひじりと女ひじりともに住みたまふみ山はあれか筑波こほしも
[#ここで字下げ終わり]
 二人の中に共通の道を持ち、事業を持ち、それによって燃え上る恋もまた美しい。ひとつに融け合う夫婦生活は尊い。ブース夫婦。ガンジー夫婦。リープクネヒト夫婦。孫文夫婦。乃木夫婦。木村重成夫婦。細川忠興夫婦。
 高貴なもののために殉じた犠牲の死をもって、また互いにささげ合う夫婦の愛と誠を証し合った乃木夫婦の如きは日本の男女の鑑である。われらはこれを世界にほこりたい。
 もしこれをしも軽んじ、もしくは不感性の娘があるとしたら、それはその化粧法の如く心まで欧化してしまった異邦人の娘である。もう祖国の娘ではない。国土から咲いた花ではない。
 どこまでも日本の娘であれ。万葉時代の娘のような色濃き、深き、いのち[#「いのち」に傍点]をかけた恋をせよ。モダンな服装の下に、泡雪の乳房、玉きはるいのち[#「いのち」に傍点]、大和乙女の血の脈打っていることを忘れるな。
 丹椿の色濃き恋より入れ。そして老いては女性の聖となるまでに、その恋を守り、高め、そして浄化せよ。[#地から2字上げ](一九三四・一二・二〇)



底本:「青春をいかに生きるか」角川文庫、角川書店
   1953(昭和28)年9月30日初版発行
   1967(昭和42)年6月30日43版発行
   1981(昭和56)年7月30日改版25版発行
※「×」は、底本が用いた伏せ字用の記号です。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2005年2月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング