、生理的な方面に関係のあるケヤーは母性愛になくてならぬものである。
 映画「母の手」などもこの種の世話、心づかいが豊富に盛られているためにどれほど母らしさの愛が活写されているか知れない。母牛が犢《こうし》をなめるような愛は昔から舐犢《しとく》の愛といって悪い方の例にされているけれども、そういう趣きがなくなっては、母の愛は去勢されるのだ。
 子どもの養、教育の資のために母親が犠牲的に働くという場合は、主として父親のない寡婦の母親の場合であるが、立志伝などではこの場合が非常に多いようだ。ブース大将の母、後藤新平の母、佐野勝也の母などもそうである。また貧しい家庭では、たとい父親のある場合でも、母親は子どもの養、教育の費用のために犠牲的に働くのだ。それが母子の愛を深め、感謝と信頼との原因となるのはいうまでもない。愛してはくれるが、働いてくれるには及ばなかった富裕な家の母と、自分の養、教育のために犠牲的に働いてくれた母とでは、子どもの感情は大変な相異であろう。労働と犠牲とは母性愛を神聖なものにする条件だ。佐野勝也氏の母は機を織ったり、行商したりして子どもの学資をつくった。後藤新平は母の棺の前に羽織、袴で端座して、弔客のあるごとに、両手をついて、「母上様誰それがきてくれました」と報じて、涙をこぼしたということだ。
 母親が子どもを薫陶した例は昔から枚挙にいとまない。
 孟子の母の断機、三遷の話、源信僧都の母、ガンジーの母、ブースの母、アウガスチンの母、近くは高村光雲の母など、みな子どもを励まし、導いて、賢い、偉い人間になるように鼓吹した。それは動物的、本能的な愛からもっと高まって、精神的、霊的な段階にまで達した愛である。実際厳しいところのある母を持った子は幸いである。厳しい母親というものは少ない。その感化は一生つづく、子どものときから一生涯つづく性格に力強い方向を与える。女性の任務の最大なものは母としてのそれであろうが、母としての務めの中でも、この子どもの精神と霊とを薫陶することが一番高い、重大なものであろう。
 しかし子どもの精神と霊性とを薫陶するということも、肉体の世話と、労働の奉仕とを前提としなくては、子どもを心服せしめ、感化を及ぼすことはできない。哺乳は乳母任せ、身のまわりの世話は女中まかせ、学資は夫まかせで、自分は精神上の薫陶だけしようとしたって、効果の上るはずはない。
 しかしただ教育的で厳しいだけで、ちっとも子どもを甘やかすというところのない母親は美しいものではない。そこには人情の機微がなければならぬ。ことに子どもの幼いときに、故意に、不自然に教育的なのはよくない。食卓でいちいち合掌させて食事をさせるというようなのは私は好まない。「おいたはおよし」と母親が叱っても、茶碗を引っくり返すくらいなところもないと母のなつかしみはつくまい。人間としての本質の要所要所で厳格でありたい。
 母としての女性の使命はこのほかにまた、「時代を産む母」としてのそれがあることを忘れてはならぬ。女性の天賦の霊性と直観力とで、歴史と社会との文化史的向上の方向を洞察して、時代をその方向に導くように、男子を促し、鞭韃し、また自ら立ってそのために奮闘するだけの覚悟がなくてはならぬ。その覚悟はまた自ら子どもをその時代を産むための努力に鼓吹する結果とならずにおかぬはずである。この時代を産む母としての使命については、これまでの日本の婦人は自覚が足りなかったといわねばならぬ。日本は今その内外の地位に一大飛躍を要求されているときであり、国の建てなおしをする劃期的時代を産む陣痛状態にあるのである。このときに際して、日本の婦人はその事業を男子のみに任せておくことなく、「時代を産む母」としての任務を自覚して立ち上らねばならないのである。
 最後に母性の愛は公のために犠牲を要求されねばならぬ。
 祖国の安危のために、世界の平和のために、人道と文明のために、たちがたき恩愛をたって、自分の子を供えものにせねばならぬ。マリアはキリストを、乃木夫人は二人の息子を、この要求のために犠牲にしたのだ。初めに出発した生物的、本能的愛と比較するとき、これは何という相異であろう。しかもこれはひとしく人間の母性愛の様相なのだ。後のものは高められた母性愛、道と法とに照らされたる母性愛である。そこに人間の尊貴さがある。愛のために孟子の母はわが子を鞭打ち、源信の母はわが子を出家せしめた。乃木夫人は戦場に、マリアは十字架へとわが子を行かしめたのも、われわれはこれを母性愛に対する義務の要求と見ずに、道と法とに高められ、照らされたる母性愛と見たい。それだけの負荷をあえて人間の精神、母なるものの霊性に課したいのである。永遠の母とはかかる母を呼ぶべきものであろう。
 ゴーリキーの小説『母』の中の母親や、拙作『布施太子の入山』の中の太子の母などは、この種の道と法とに高められ、照らされた、母性愛を描いたものである。
 私は数年前、『女性美の諸段階について』というエッセイを書いたことがあった。その中で私はあらゆる女性美の型を、その中に含まれている「善」の段階に比例して、下級のものから取り扱っていった。最低位に「継母」があり、「鬼女」「淫女」等がこれに次ぎ、「淑女」「貴婦人」「童女」「天女」等とさかのぼり、最高の段階に聖母が位した。そして種々の聖母像の中で、どの聖母が最も美しいかを定めようとして、ついにファン・エックの聖母と、デューラーの聖母とが残り、この二つのうちついにデューラーの聖母が最後にサーヴァイブしたのであった。
 ファン・エックの聖母は高貴な瓔珞《ようらく》をいただいているが子どもにはぐくませる乳房のふくらみなく、その手は細く、しなやかであるが、抱いてる子どもの重さにもたえそうにもない。これに反しデューラーのマリアは貧しい頭巾をかぶっているが乳房は健かにふくれ、その手はひびが切れてあれているがしっかりと子どもを抱くに足り、おしめ[#「おしめ」に傍点]の洗濯にもたえそうだ。子どもを育て得ぬファン・エックの聖母は如何に高貴で、美しくても「母」たるの資格がない。現実の人生においては、デューラーの聖母を選ぶべきである。すなわち、子どもを哺育し、その世話をする労務にたえ得る母、その手のあれ[#「あれ」に傍点]たるマリアでなくてはならぬ。何故なら愛は実践であり、心霊の清浄と高貴とは愛の実践によってのみ達せられるものだからである。
[#地から2字上げ](一九三四・一〇・三一)

     三 恋愛――結婚(上)

 恋愛は女性が母となるための門である。よき恋愛から入らずよい母となることはできぬ。女性は恋愛によって自分の産む子に遺伝し、感染させたいような諸特徴を持った男性を選ぶのである。この選択が無意識的になされるところに恋愛という本能のはたらきがあるのだ。しかしそれだからといって恋愛を母となるための手段と見るのはたりない。花は実を結ぶ手段ではあるが、実は花を咲かすための手段ともとれる。恋愛はやはり人生の開花であると見るべきだ。女性の造化から与えられているさまざまの霊能が恋愛の本能の開発する時期に同時に目をさまし、生き生きとあらわれてくる。美と力とそしてことに霊の憧憬が恋愛の感情とともにあらわれるということは、面白いまたありがたい事実といわねばならぬ。徳、善、道というものへの憧れのまじらないような恋愛は純真な恋愛ではない。女性は美しく、力強い男性を選ぶのだが、善い、高貴な素質をそなえた男性をこれと切り放すことなしに求めねばならぬ。恋愛するときに、この徳への憧れが一緒に燃え上がらないようなことではその女性の素質は低いものであるといわねばならぬ。何故なら恋愛するときほど、女性の心が純であるときはないのだからだ。恋愛にこの性質があるために、青年は女性によって強められ、浄められ、励まされる。一国の青年がなまけて、軽くて、使命の自覚のないその日暮らしの状態であるときには、その国の娘たちの恋愛がきっと本来の純熱を失って、その淘汰性がゆるんでいるのだと思われる。それ故くれぐれも恋愛を軽くあしらってはならぬ。このごろは結婚も恋愛結婚でなく、媒介結婚がいいなどという説がかなり行なわれているようだが、私は全然反対である。結婚はどこまでも恋愛から入らねばならぬ。こういう生命の本道というものをゆがめるところから、どんな大きな間違いが結果するであろうか。なるほど媒介結婚説は一つの社会現実の知恵からきたもので、恋愛結婚の方が甘いように一見見えるけれども、決してそうではない。こういった種類の現実的知恵というものは鋭いように見えても、本道ではないから、さきでその復讐を受ける。恋愛でさえも媒介結婚で満足し、現実の便宜で妥協するようなことでは、その他の人生の尊いものもどう取り扱われるかしれている。たとい田の畔《あぜ》での農夫と農婦との野合からはいった結婚でさえも、仲人結婚より勝っている。こんな人生の大道を真直ぐに歩まないのでは後のことは話しにならない。夫婦道も母性愛も打ち建てるべき土台を失うわけである。その人の子を産みたいような男子、すなわち恋する男の子を産まないでは、家庭のくさび[#「くさび」に傍点]はひびが入っているではないか。ことに結婚生活に必ずくる倦怠期に、そのときこそ本当の夫婦愛が自覚されねばならないのだが、そうしたときに、恋愛から入っていなくては思いなおしができぬ。
[#ここから2字下げ]
今更らに何をか嘆かむうちなびき心は君に依りにしものを
[#ここで字下げ終わり]
 これは万葉の歌だが、恋愛から入った夫婦でなくてはこうしたしみじみした諦感は起こるまい。
 結婚はそのように恋愛から入らねばならないから、恋愛する態度は厳かで、純で、そして知恵のあるものでなければならない。互いに異性に交際する機会の少ない男女は軽速な恋に陥りやすいから相手を見誤らないように注意せねばならぬ。恐ろしい男子は世間に少なくないからだ。といって身の振り方をつけるためばかりに男子を見、石橋をたたいてみてから初めて恋をするというような態度でも困る。これは可愛らし気がなく、純な娘らしい雰囲気がなくなるからだ。恋愛は一方では、意識選択ではなく、運命[#「運命」に傍点]であるという趣きがあるということも必ず忘れてはならぬ。これが人生の神秘というもので、そういう感じがないと常識的、取引的、身の振り方をつけるための品定めのようになって恋愛のたましいがぬけるからだ。こんなふうにいうとむずかしい態度になるようだが、そこが造化のたくみで、純な娘の本能の中に、自分を保護する本能と相手を見わける英知とがおのずとそなわっているのだ。純真な娘であることが、やはり一番安全であるということになるのだ。「これは変だな」と思うようだったら、どこかあやしいのである。しかし自分の心に曇りがあれば、相手に乗じられて、相手の擬装が見わけられないようになる。欲心とうぬぼれとは最もよくない。よほど綺麗な人でも、人は誰でも好意をもってくれるのが当り前のように思っているとひどい目にあうことがある。また相手の財産などあまりあてにならぬ。何故なら今日の世態ではよほどの財産でない限り、やがてじきになくなるからだ。相手の人格と才能とをたのみ自分も共稼ぎする覚悟でなくては選択の範囲がせまくなってしまう。恋人には金がないのが普通と思わねばならぬ。社会的地位のある男子にならそれほど好きでなくとも嫁ぐというような傾向は娘の恥である。しかしいくら恋愛結婚でも二、三年は交際してからでないと相手を見あやまるものだ。だから恋愛の表現、誓い、ことに肉体的のそれは最後までつつしまねばならぬ。日本にも少し健全な男女交際の機会が与えられねばならぬと思う。
 すべての精神的に貴重なものが、そうであるように、恋愛もまた社会状態、経済的機構のいびつのために、みじめに押しまげられている。恋愛についてこうした理想的な要請をする場合に、私たちはそのことを考えると力抜けがするのを感じる。これはどうしても社会制度一般の正しい建てなおしをしなくてはならないの
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