重要問題に関する自らの「問い」をもって読書することをすすめたい。生に真摯であれば「問い」がないはずはない。そして「問い」こそ自発的に読書への欲求を促すものである。法然はその「問い」の故に比叡山で一切経をみたびも閲読したのである。
 書物は星の数ほどある。しかしかような「問い」をもってたち向かうとき、これに適切に答え得る書物はそれほど多いものではないのである。むしろそのはなはだ少ないのに意外の感を持つであろう。
 かくして「問い」はおのずと書物を選ばしめる。自らの「問い」なくして手当たり次第に読書することは、その割合いに効果乏しく、また批判の基準というものが立ちがたい。
 自ら問いを持ち、その問いが真摯にして切実なものであるならば、その問いに対する解答の態度が同様なものである書物を好むであろう。まず問いを同じくする書物こそ読者にとって良書なのである。かような良書の中で、自分の問いに、深く、強く、また行きわたって精細にこたえてくれる書物があるならば、それは愛読書となり、指導書となるであろう。かような愛読書ないし指導書は一生涯中数えるほどしかないものである。
 たとえば私にとっては、テオドル
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