ころではない、思わざるを思うためにさえもあるものである。すなわち、自己独りではとうてい想望できなかったような高い、美しいイデーや、夢が他の天才の書を読むことにより、自分の精神の視野に目ざめてくるのである。
聖書を読むまでと、読後とでは、人間の霊的道徳性はたしかに水準を異にする。プラトンとダンテとを読むと読まないとではその人の理念の世界の登攀《とはん》の標高がきっと非常に相違するであろう。
高さと美とは一目見たことが致命的である。より高く、美しいものの一触はそれより低く一通りのものでは満足せしめなくなるものである。それ故に青年時代に高く、美しい書物を読まずに逸することは恐るべく、惜しむべきことである。何をおいても、人間性の霊的・美的教養の書物は逸することを恐れて、より高く、より美しきものをと求めて読んでおかなければならないのである。
学術的、社会・経済的ないし職業専門的の書物にあっても、つとめて勤勉して読むことは、非常に必要である。現実の心得としては、おそらくさきに述べたような私の高等的忠言よりも、「読むべし、読むべし」と鞭撻すべきかもしれない。読みすぎることをおもんぱかるのは現代学生の勤勉性を少しく買いかぶっているかもしれない。
生と観察との独自性を失わない限りは、寸陰を惜しんで読書すべきである。すぎた多読も読まないより遙かにまさっている。
学生時代においては読書しないとは怠惰の別名であるのが普通である。「勉強の虫」といわれることは名誉である場合が多い。われわれも学生時代に課業のほか、寄宿舎の消灯後にも蝋燭をともして読書したものである。深い、一生涯を支配するような感激的印銘も多くそうした読書から得たのである。西田博士の『善の研究』などもそうして読んだ。とぼとぼと瞬く灯の下で活字を追っていると、窓の外を夜遊びして帰った寮生の連中が、「ローベン(蝋燭の灯で勉強すること)はよせ」「糞勉強はやめろ」などと怒鳴りながら通って行く。その声を聞きつつ何か勝利感に似たものをハッキリと覚えている。
読書は自信感を与えるものである。読書しないでいると内部が空虚になっていく。読書しない青年には有望な者はいない。天才はたとい課業の読書は几帳面でないまでも、図書館には籠って勉強するものである。
読書にとらわれる、とらわれないというのはそれ以上の高い立場からの要請であって、勉強し
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