うに見える思想家や、学者や学生は今日少なくないのである。明治以来今日にいたるまで、一般的にいって、この傾向は支配的である。ようやく昨今この傾向からの脱却が獲得されはじめたくらいのものである。
これは明治維新以来の欧化|趨勢《すうせい》の一般的な時潮の中にあったものであり、自覚的には、思想的・文化的水準の低かった日本の学者や、思想家としてはやむをえない状態でもあったのである。
けれどもいつまでもそうあるべきではなく、人生、思想、芸文、学問というものの本質がそれを許さない。ヨーロッパの誰某はかくいっているという引用の豊富が学や、思想を権威づける第一のものである習慣は改正されなければならぬのである。
この習慣の背後には、一般に、書物至上主義でないまでも、過度の書物依頼主義が横たわっている。この習慣は信じられぬほど安易への誘惑を導くものであり、もはや独立して思索したり、研究したりする労作と勇猛心と野望とにたえがたくするものである。他人の書物についてナハデンケンする習慣にむしばまれていない独立的な、生気溌剌とした学者や、思想家を見出すことはそう容易ではない。
これは学生時代から書物に対する態度をあまりに依属的たらしめず、自己の生と、目と、要請とを抱きつつ、書を読む習慣を養わなければならないのである。
他人の生と労作との成果をただ受容してすまそうとするのは怠惰な態度である。というのは生と労作は危険を賭し、血肉を削ってしかなされないものであって、一冊のすぐれた著書を世に贈り得ることは容易ではないからである。
過度の書物依頼主義にむしばまれる時は創造的本能をにぶくし、判断力や批判力がラディカルでなくなり、すべての事態にイニシアチブをとって反応する主我的指導性が萎《な》えて行く傾向がある。
知識の真の源泉は生そのものの直接の体験と観察から生まれるものであることを忘れてはならない。「直接にそしてラディカルに」このモットーを青年時代から胸間に掲げていなくてはならぬ。
けれどもいうまでもなく個人がすべてを実地に体験し得るものでもなく、前にいった人間共生と共働の原理により、他人の体験と研究の遺産と寄与とを受けて、自らを富ますことは賢明であり、必要であり、謙遜でもある。
この意味においては、書物とは見ざるを見、味わわざるを味わい、研めざるを知得するためにあるものである。それど
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング