書を読んで終に書を離れるのが知識階級の真理探究の順路である。
現代青年学生は盛んに、しかしながら賢明に書を読まねばならぬ。しかしながら最後には、人間教養の仕上げとしての人間完成のためには、一切の書物と思想とを否定せねばならぬものであることを牢記しておくべきものである。
キリストのいうように「嬰児」の如くになり、法然の説く如くに、「一文不知の尼入道」となり、趙州の如くに「無」となるときにのみ、われわれは宇宙と一つに帰し、立命することができるのである。
五 知性か啓示か
今日この国の知識階級の前には知性か啓示かの問題がおかれている。知性主義は主として現在の文化指導者たちによってとなえられているものである。そして今のところ青年学生はこの知性主義を支持し、それが読書の方向を支配しているかに見える。
われわれはインテリゼンスの階層である読書青年が今その旺盛な知識欲をもって、その知的胃腑を満たし、また思考力を操練せねばならないとき、知性の拡充よりもその揚棄を先きに説かんと欲するものではない。しかしながら知性そのものにもその階層がある。真理を把握するオルガンとしての知性は、直観となり、啓示となるのでなければ全くはない。今日この国の知的指導者たちの主張するのは主として合理的知性である。「合理的なるもの」を認識するための知性である。しかし生の真理の重要な部分はむしろ非合理的の構造を持ち、それを把握するためにはそれに対応する直観的英知によらねばならぬ。さらに生の真理の最深部は啓示によるのでないならとらえることができぬ。否それはわれわれがとらえるのでなく、とらえられるのである。
ブルンナーやバルトらの主張する如くに、啓示なくして、理性知のみによって、生の真理をとらえ得るという考え方そのものが、すでに生への要請を平浅ならしめるものである。
最近にはこの国の知性主義者たちも、その非を認めて知性の改造をいうようになった。それはよろこぶべき転向である。しかしながらまだ、彼らが知性の否定や、啓示の肯定をいうようになる時機はおそらく遠いであろう。
われわれは生の探求に発足した青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬことを注意せざるを得ず、またその読者の選択を合理的知性に対応する方向のみに向けしむることは
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