である。それは最も深き意味での人間教育である。真と美とモラルの高みへとわれわれを引き上げてくれるのである。かような人間教育をなし得る書物こそ最良の書であり、青年がたましいを傾けて愛読すべきものである。
 われわれが読書に意を注がぬことの最も恐ろしいのは、かような人間教育の書にふれる機会を失うからである。仏教の開教偈に、
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微妙甚深無上の法は、百千万劫にも遇ひ難し。我れ今見聞して受持するを得たり。願はくは如来の真実義を解かん。
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とあるのはこの心である。「あいがたき法」「あいがたき師」という敬虔の心をもっと現代の読書青年は持たねばならぬのである。
 街頭狗肉を売るところの知的商人、いつわりの説教師たちを輩出せしめる現代ジャーナリズムに毒されたる読書青年が、かような敬虔な期待を持つことができないのは同情に値する。しかしながらジャーナリズムはまた需要にこたえるものでもある。読書子の書物への期待が深く、高いならば、そのような書物についにはあうことができるであろう。

     四 書物無き世界

 人間教養の最後は、しかしながら、書物によるものではない。人は知性と、一般に思想とを究竟のものと思ってはならないのである。人間の宇宙との一致、人間存在の最後の立命は知性と思想とをこえた境地である。いと高く、美しき思想もそれが思想である限りは、「なくてならぬ究竟唯一」のものではない。書物は究竟者そのものを与え得ない。それは仏教では「絶学無為の真道人」と呼ぶのである。学を絶って馳求するところなき境地である。「マルタよ、マルタよ、汝思ひわづらひて疲れたり。されどなくてならぬものは唯一つなり」とキリストがいったように、思想そのものは実は「思い煩い」であり、袋路である。はてしなき迷路である。知識階級とは、この意味においては、永遠の懐疑の階級なのである。立命のためには知性そのものを超克しなくてはならぬ。知性を否定して端的に啓示そのものを受けいれねばならぬ。それは書物ではできない。その意味においては、弁証法的神学者がいうように、聖書でさえも啓示を語った書ではあるが、啓示そのものではないのである。
 かように書物と知性から離れて端的に神の啓示につくまでの人間超克の道程に読書があるのである。読書は無意義ではない。啓示を指さす指である。解脱への通路である。
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