し」と書いてある。
 こうした深山に日蓮は五十三歳のときから九年間行ない澄ましたのである。
「かかる砌なれば、庵の内には昼はひねもす、一乗妙典のみ法《のり》を論談し、夜はよもすがら、要文誦持の声のみす。……霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士《あま》も、かくやと思ひ遣る。さま/″\思ひつづけて、観念の牀《とこ》の上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の声に目をさまし、……(身延山御書)」
 こうしたやさしき文藻は粗剛な荒法師には書けるものでない。
 建治二年三月旧師道善房の訃音に接するや、日蓮は悲嘆やる方なく、報恩鈔二巻をつくって、弟子日向に持たせて房州につかわし、墓前に読ましめ「花は根にかえる。真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の御身にあつまるべし」と師の恩を感謝した。
 それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。
「海苔《あまのり》一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわ
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