対して善知識たるの器ではなかった。ただ蔵経はかなり豊富だったので、彼は猛烈な勉強心を起こして、三七日の断食して誓願を立て、人並みすぐれて母思いの彼が訪ね来た母をも逢わずにかえし、あまりの精励のためについに血を吐いたほどであった。
十六歳のとき清澄山を下って鎌倉に遊学した。鎌倉は当時政治と宗教の中心地であった。鎌倉の五年間に彼は当時鎌倉に新しく、時を得て流行していた禅宗と浄土宗との教義と実践とを探求し、また鎌倉の政治の実情を観察した。彼の犀利の眼光はこのときすでに禅宗の遁世と、浄土の俗悪との弊を見ぬき、
鎌倉の権力政治の害毒を洞察していた。二十一歳のときすでに法然の念仏を破折した「戒体即身成仏義」を書いた。
その年転じて叡山に遊び、ここを中心として南都、高野、天王寺、園城寺等京畿諸山諸寺を巡って、各宗の奥義を研学すること十余年、つぶさに思索と体験とをつんで知恵のふくらみ、充実するのを待って、三十二歳の三月清澄山に帰った。
かくて智恵と力をはらんで身の重きを感じたツァラツストラのように、張り切った日蓮は、ついに建長五年四月二十八日、清澄山頂の旭の森で、東海の太陽がもちい[#「もちい」に傍点]の如くに揺り出るのを見たせつなに、南無妙法蓮華経と高らかに唱題して、彼の体得した真理を述べ伝えるべく、立教開宗したのである。
彼は王法の乱れの原因を仏法の乱れに見出した。「仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ」かくして過ぎなば「結局この国他国に破られて亡国となるべき也」これが日蓮の憂国であった。それ故に国家を安んぜんと欲せば正法を樹立しなければならぬ。これが彼の『立正安国論』の依拠である。
国内に天変地災のしきりに起こるのは、正法乱れて、王法衰え、正法衰えて世間汚濁し、その汚濁の気が自ら天の怒りを呼ぶからである。
「仏法やうやく顛倒しければ世間も亦濁乱せり。仏法は体の如く、世間は影の如し。体曲がれば影斜なり」
それ故に王法を安泰にし、民衆を救うの道は仏法を正しくするをもって根本としなければならぬ。
しからばいかなるが仏の正法であるか。
日蓮によれば、それは法華経をもって正宗としなければならぬ。
なぜなれば、法華経は了義経であって、その他の華厳経、大日経、観経を初め、已、今、当の一切の経は不了義経である。しかるに涅槃経によれば、依[#(テ)][#二]了義経[#(ニ)][#一]不[#(レ)][#レ]依[#(ラ)][#二]不了義経[#(ニ)][#一]とある。
それ故に仏の遺言を信じるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心を知るべきである。したがって法華経の文を開き奉れば、「此法華経[#(ハ)]於[#(テ)][#二]諸経ノ中[#(ニ)][#一]最[#(モ)]在[#(リ)][#二]其上[#(ニ)][#一]」とある。
また涅槃経に、「依[#(ッテ)][#レ]法[#(ニ)]不[#(レ)][#レ]依[#(ラ)][#レ]人[#(ニ)]」とあるからには、もろもろの人師によらずしてひたすら経によるべきである。したがってよるべきは経にして、了義経たる法華経のみ。その他の諸菩薩ないし人師もしくは不了義経を依拠とせる既成の八宗、十宗はことごとく邪宗である。
既成の諸宗の誤謬は仏陀の方便の権教を、真実教と間違えたところにある。仏陀の真実教は法華経のほかには無い。仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。
仏陀の正法は法華経あるのみ。その他の既成の諸宗は不了義の権経にもとづく故に、ことごとく無得道である。
以上が日蓮の論拠の根本要旨である。
日蓮はこの論旨を、いちいち諸経を引いて論証しつつ、清澄山の南面堂で、師僧、地頭、両親、法友ならびに大衆の面前で憶するところなく闡説し、
「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊。既成の諸宗はことごとく堕地獄の因縁である」と宣言した。
大衆は愕然とした。師僧も父母も色を失うた。諸宗の信徒たちは憤慨した。中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚《しんい》肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。
このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴《ほうふつ》せしめる。
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「道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭を恐れ給ひて、心中には不便とおぼしつらめども、外はかたきのやうににくみ給ひぬ――本尊問答抄」
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清澄山を追われた日蓮は、まず報恩の初めと、父母を法華経に帰せしめて、父を妙日、母を妙蓮と法号を付し、
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