門が家のうしろの家より、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上は板間合はず、四壁はあばらに、雪降り積りて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮うちしき、蓑うちきて夜を明かし、日を暮らす。夜は雪雹雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべき住居なり」
こうした荒寥の明け暮れであったのだ。
承久の変の順徳上皇の流され給うた佐渡へ、その順逆の顛倒に憤って立った日蓮が、同じ北条氏によって配流されるというのも運命であった。
「彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬ荒夷《あらえびす》なれば、荒く当りたりし事は申す計りなし」
「彼の国の道俗は相州の男女よりも怨《あだ》をなしき。野中に捨てられて雪に肌をまじえ、草を摘みて命を支えたりき」
かかる欠乏と寂寥の境にいて日蓮はなお『開目鈔』二巻を撰述した。
この著については彼自ら「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし」といい、「日蓮は日本国のたましひなり」という、仏陀の予言と、化導の真意をあらわす、彼の本領の宣言書である。彼の不屈の精神はこの磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《こうかく》の荒野にあっても、なお法華経の行者、祖国の護持者としての使命とほこりとを失わなかった。
佐渡の配所にあること二年半にして、文永十一年三月日蓮は許されて鎌倉に帰った。しかるに翌四月八日に平ノ左衛門尉に対面した際、日蓮はみたび、他国の来り侵すべきことを警告した。左衛門尉は「何の頃か大蒙古は寄せ候ふべき」と問うた。日蓮は「天の御気色を拝見し奉るに、以ての外に此の国を睨みさせ給ふか。今年は一定寄せぬと覚ふ」と大胆にいいきった。平ノ左衛門尉はさすがに一言も発せず、不興の面持であった。
しかるに果して十月にこの予言は的中したのであった。
彼はこの断言の時の心境を述懐して、「日蓮が申したるには非ず、只ひとへに釈迦如来の御神我身に入りかはせ給ひけるにや。我身ながら悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」と書いている。かような宗教経験の特異な事実は、客観的には否定も、肯定もできない。今後の心霊学的研究《サイキカルリサーチ》の謙遜な課題として残しておくよりない。しかし日蓮という一個の性格の伝記的な風貌の特色としては興趣わくが如きものである。
八 身延の隠棲
日蓮の最
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