処するということになった。
これは貞永式目に出家の死罪を禁じてあるので、表は流罪として、実は竜ノ口で斬ろうという計画であった。
日蓮はこの危急に際しても自若としていた。彼の法華経のための殉教の気魄は最高潮に達していた。
「幸なる哉、法華経のために身を捨てんことよ。臭き頭をはなたれば、沙に金を振替へ、石に玉をあきなへるが如し。(種々御振舞御書)」
彼は刑場におもむく前、鎌倉の市中を馬に乗せられて、引き回されたとき、若宮八幡宮の社前にかかるや、馬をとめて、八幡大菩薩に呼びかけて権威にみちた、神がかりとしか思えない寓諫を発した。
「如何に八幡大菩薩はまことの神か」とそれは始まる。彼は釈迦が法華経を説いたとき、「十方の諸仏菩薩集まりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたるが如くなりし時」その会《え》中にあって、法華経の行者を守護すべきを誓言したる八幡大菩薩は、いま日蓮の難を救うべき義務があるに、「いかに此の所に出で合はせ給はぬぞ」と責めた。
神明を叱咤《しった》するの権威には、驚嘆せざるを得ぬではないか。
急を聞いて馳せつけた四条金吾が日蓮の馬にとりついて泣くのを見て、彼はこれを励まして、「この数年が間願いし事是なり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》われ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向し、其の余をば弟子檀那等にはぶくべし」
といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、
「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。……各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ、糞に米をかうるなり」
かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられんとした際、異様の光りものがして、刑吏たちのまどうところに、助命の急使が鎌倉から来て、急に佐渡へ遠流ということになった。
文永八年十月十日相模の依智《えち》を発って、佐渡の配所に向かった日蓮は、十八日を経て、佐渡に着き、鎌倉の土籠に入れられてる弟子の日朗へ消息している。
「十二[#「十二」はママ]月二十八日に佐渡へ着きぬ。十一月一日に六郎左衛
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