る。学業に勉励せぬ、イデアリストでない学生に恋愛を説く如きは私には何の興味もないことである。学生の常なる姿勢は一に勉強、二に勉強、三に勉強でなくてはならぬ。なるほど恋愛はこの姿勢を破らせようとするかもしれぬ。だがその姿勢が悩みのために、支えんとしても崩されそうになるところにこそ学窓の恋の美しさがあるのであって、ノートをほうり出して異性の後を追いまわすような学生は、恋の青年として美しくもなく、また恐らく勝利者にもなれないであろう。
しかし私がかくいうのは勉強と恋愛とをほどほどにやれというのではない。まして勉強の余暇に恋愛をたのしめというような卑俗な意味ではない。恋愛には恋愛のモラルと法則とがある。その意味では「学校を落第してまでは恋愛をせぬ」というモットーは理想主義のものでなくして、散文主義のものである。イデアリストの青年にあっては、学への愛も恋への熱もともに熾烈でなくてはならぬ。この二つの熱情の相剋するところに学窓の恋の愛すべき浪曼性があるのである。
かようにして私は真摯な熱情をもって、学びの道にある青年の、しかも理想主義の線にそっての恋愛について説きたいのである。すでに女を知ってしまった中年のリアリストの恋愛など学生は軽蔑してあわれんでおればいい。それは多くは醜悪なものであり、最もいい場合でも、すでに青春を失ってしまったところの、エスプリなき情事《リーブシャフト》にすぎないからだ。
二 倫理的憧憬と恋愛
性の目ざめと同時に善への憧憬が呼びさまされるということは何という不思議な、そしてたのもしいことであろう。これが青年の健康性の標徴だ。ヒューマニティーの根源だ。この二つのものは同時に起こるだけでなく、まじり合い、とけ合って起こるのだ。この二つがまじり合って起こらないなら、それは病的徴候であり、人間性の邪道に傾きを持ってるものとして注意しなければならぬ。
青年にとって性の目ざめは肉体的な、そして霊的な出来ごとである。この湧き上ってくる衝動と、興奮と、美しく誘うが如きものは何であろう。人生には今や霞がかかり、その奥にあるらしい美と善との世界を、さらに魅力的にしたようである。若き春!
地上には花さえ美しいのにさらに娘というものがある。彼女たちは一体何ものだ。自然から美しく創りなされて、自分たちを誘うような、少なくとも待ってるように見えるこの人間群は
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