もみぢ葉に似てこそありつれ
[#ここで字下げ終わり]
これは万葉の一歌人の歌だ。汝らの美しき娘たちを花にたとえ、紅葉に比べていつくしめ。好奇と性慾とが生物学的人間としての青年たちにひそんでいることを誰が知らぬ者があろう。だがそれらは青春のわくが如き浪曼性と、さかんなる精神的憧憬の煙幕の下に押しかくされ、眠らされているのだ。
結婚前の青年にとって、恋愛とは未来の「よりよき半分」を求めんとする無意識模索である。それは正統派の恋愛論の核心をなすところの、あの「二つのもの一つとならんとする」願望のあらわれである。ペーガン的恋愛論者がいかに嘲っても、これが恋愛の公道であり、誓いも、誠も、涙も皆ここから出てくるのだ。二人の運命を――その性慾や情緒をだけでなく――ひとつに融合しようとするものでなくては恋愛ではない。この愛らしの娘は未来のわが妻であると心にきめその責任を負う決意がなければならぬ。互いの運命に責任を持ち合わない性関係は情事と呼ぶべきで、恋愛の名に価しない。
恋愛は相互に孤立しては不具である男・女性が、その人間型を完うせんために融合する作用であり、「を味う」という法則でなく、「と成る」という法則にしたがうものであり、その結果として両者融合せる新しき「いのち」が生誕するのだ。
子どもの生まれることを恐れる性関係は恋愛ではない。
「汝は彼女と彼女の子とを養わざるべからず」
学生時代私はノートの表紙に、こう書きつけて勉強のはげましにした。
四 青春の長さと童貞
恋愛は倫理的なあこがれであるだけでなく、肉体的、感覚的な要請であることはいうまでもない。それは、露わにいえば、手を、唇を、肌を相触れんとするところの衝動でもある。したがっていかなる倫理的な、たましいの憧憬を伴う恋愛も終局はその肉体的接融をまって完成すべきものではある。しかしたましいの要請が強ければ強いだけ、その肉体的接融はその用意を要する。すなわち肉体だけがたましいの要請をはなれて結びつかぬように、そうした部分がないように隙間なく要求されてくるのは当然なことである。これは一方が打算から身を守るというようなことでなく、相互にそうしなければ恋愛の自覚上気がすまない。これが本当の慎しみというものだ。
学生は大体に見て二十五歳以下の青年である。二十五歳までに青年がその童貞を保持するに耐えないという
前へ
次へ
全19ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング