明できないが、不自由は一層証明し難い、というのみである。
 詮ずるところ、われわれは決定論によっても、非決定論によっても、自由の満足なる説明を今のところ見出し得ない。この倫理学上の根本問題は謎として残されている。われわれがこの上もなく明らかな自覚を持って疑わぬ自由の意識と責任の感を、合理的に説明できないということは実に人性の構造の神秘というほかはない。

     六 種々の視点への交感

 教養としての倫理学研究は必ずしも一つの立場からの解決を必要としない。人間の倫理観のさまざまなる考え方、感じ方、解決のつけ方等をそれぞれの立場に身をおいて、感味して見るのもいい。それは人間としての視野をひろくし、道徳的同情を豊かに、細緻にするからだ。
 近世倫理学史も、哲学史のように、カントに集まって、カントから出て行く。カントの形式的倫理学に反対したのは実質的倫理学だけではなく、ギヨーや、ディルタイの如き生命主義の倫理学や、フォイエルバッハから、エンゲルス、マルクス、カウツキーにいたる社会主義の倫理学がある。今これらを詳述する紙幅はないが、ギヨーは『義務と制裁のない道徳論』において、生命の維持特に
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