わけにはいかないのであり、リップスがいうように、そのような人格故に卑しむべしと評価することはもとより可能であり、その評価はたしかに人格価値の評価ではあるが、それは盗む鼠に対するのと同じ評価であり、彼にそれを禁じる動機が存しなかったからといって、彼は責められるわけはないはずである。このことは変質者や、精神病者の場合には一層明らかである。色情狂はたしかに卑しむべきだ。そしてその卑猥の行為は疑いもなく、彼の人格に規定されている。しかし彼は道徳的評価の責に耐えるであろうか。責に耐えるとはどうしても、そうせぬことが可能であった場合でなくてはならぬ。人格に規定される故に自由であるという自由と責任の観念とは両立し得ない。しかしそれかといって、外部からも、人格からも、規定されないで、意志を決定するという意味の自由は事実上存在しない。しからば自由の意識そのものは不可解のものになる。リップスもいうように、非決定論の自由は意欲が因果律に従うことをこばむものである。しかし因果律は先験的な精神の法則であって、これに従わずに思考することはわれわれにはできない。それなら非決定的の自由とは思考ではなく、その放棄であろ
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