ものとして、実質的のものを斥けたのは実質はすべてアポステリオリでアプリオリのものは形式のみと考えたためであるが、実質的価値はアプリオリである。先験的倫理学は実質的にも可能である。選択愛憎等の情緒的な心情もアプリオリの内容を持ち、「心情の秩序」が存在する。道徳価値の把握は知的作用によらず、情緒的な直覚によって価値感知《ウェルトフェーレン》されるのである。これがシェーラーのいわゆる情緒的直覚主義の立場である。シェーラーはさらに価値の等級を直観するアプリオリの等級感があるといい、ある意欲対象である価値が、他の意欲のそれといずれが善であるかはこの等級感によってアプリオリに直覚されると主張する。シェーラーを継承してさらに発展せしめたニコライ・ハルトマンも実質的価値が等級において存在し等級感によってアプリオリに直覚されるという点ではシェーラーと同じである。しかしかような情緒的直覚主義が果して行為決定の際のわれわれの懐疑を救ってくれるであろうか。どの価値がどの価値よりも高いかが個人差があることは現にハルトマンがあげている価値等級の典型的表解を見てさえも、われわれとは等級感が相異するのを見てもわかる。
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