章はその思索の成績において必ずしも非常にすぐれているとは言わないが、その文章の書かれた動機は、いずれの一つもその表出の理由と衝動とにみちていないものはない。そして一つのものから次のものへと推移する過程には必然的な体験の連結がある。その意味において真に霊魂の成長の記録である。人は初めのものより、終わりのものへと進むに従って、しだいにその思索と体験とが深められ、その考え方は多様にかつ質実となり、初めには裁いたものをも赦《ゆる》し、斥《しりぞ》けたものをも摂《と》り、曖昧《あいまい》なる内容は明確となり、しだいに深く、大きく、かつ高くなり、その終わりに近きものは、もはや「恵み」の意識の影の隠見するところにまで達せんとしつつあるのを見いだすであろう。その意味においては、人はむしろ自分をあまりに早く老いすぎるとなすかもしれないほどである。実際自分には壮年期と老年期と同時に来たような気がしている。それは必ずしも自分が緻密なる思索に堪え得ざる頭脳の粗笨《そほん》と溌剌たる体験を支え得ざる身体の病弱とのためではなく、じつに自分のごとき運命を享けたる者、早き死を予感せるものが、彼岸《ひがん》と調和との思
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