いというような、執心となっているのだから。自分がもしすべてを隣人に捧げ、芸術を断念し、「旦《あした》に道を聞いて夕べに死すとも可なり」というがごとき信念の下に、病気を顧慮することなく他人のためにのみ生きるならば、今日においてもなお面会日を定めず、手紙を怠らぬことはできるのである。あるいは聖人はそうすべきであるかとも思う。しかし今はまだ自分の信心が決定せず、自分の思想が一定せず、芸術を断念することができず、またできるだけ長生きもしたく思っている程度の私の境涯であるためにやむをえないのである。自分はけっしてそれを当然だとは思わず、また満足してもいないのであることと、そのことについて赦しを乞うているものであること、また自分がそれほどにも人と触れ合うことを自分の幸福と思っているものであるということを私の隣人たちに知っていて欲しいのである。自分は自分の尊敬しているある人がなしているように、自分が触れ合った人々――それらのなかには、去る者は日に疎く、今はどこにどうしているか解らなくなっている、けれども自分が忘れることのできない人々、あるいはまた現在住所も解ってはいるけれども、めったに便りを出すこと
前へ 次へ
全394ページ中392ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング