辞して火燈《ひとも》し頃のO市に帰った。帰宅するまえ例のカフェに寄った。例の娘に「おまえ、大西博士を知ってるの」と聞いたら黙って頭を振った。天に輝く星を眺めておお涼しいこととでも思ってるのであろう。博士はとうとう美しき彼女には知られぬであろう。
暗い暗い、気味悪く冷たい、吐く気息も切ない、混沌迷瞑《こんとんめいめい》、漠として極むべからざる雰囲気の中において、あるとき、ある処に、光明を包んだ、艶《つや》消しの黄金色の紅が湧然《ゆうぜん》として輝いた。その刹那、顫《ふる》い戦《おのの》く二つの魂と魂は、しっかと相抱いて声高く叫んだ。その二つの声は幽谷に咽《むせ》び泣く木精《こだま》と木精とのごとく響いた。
君と僕との離れがたき友情の定めは、このとき深く根ざされたのであった。思えば去年私が深刻悲痛なる煩悶に陥って、ミゼラブルな不安と懊悩《おうのう》とに襲われなければならなかったとき、苦しまぎれに、寂しまぎれに狂うがごとき手紙をば幾回君に送ったことであろう。親類を怒らせ、父母を泣かせて君が決然として哲学の門に邁進《まいしん》したとき、私の心は勇ましく躍り立った。月日の立つのは早いものだ
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