んか」と小さきものに念を押されたときなんといって答えようぞ。かの耶蘇の生涯といえども、その疑いから免れることはできない。耶蘇はおそらく旧約を読み、また永きユダヤの伝説から、自分をキリストである、すなわち人間とは本来|品《ひん》を異にせる神の独り子なる贖主《あがないぬし》と信じたのであろう。彼の高き権威はそこから出ているのである。パウロの権威と耶蘇の権威とは程度の相違でなくして、品の差異である。私は耶蘇の特殊の伝説的地位でなくして、耶蘇のごとき権威をもってものをいうのは間違いであると思う。パウロの権威は私に理解できる。しかし耶蘇の権威はいまの私には不思議というほかはない。神と被造物との間には絶対的の区別がある。聖者は神でなく被造物の最大なるものである。それは人間性の超越ではなくして完成である。そこにはまだモータルとしての制限は残ってもよいのである。私らが被造物としての境を守るならば、「兄弟よ、私も間違うけれども赦してくれ」という態度をとらねばならぬ。その方が合理的であるのみならず、良心の前に安らかである。私はその態度になって初めて他人に話しかけ、働きかけることが、みずからに許される心地が
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