ヘすことである。この矛盾を一つの愛に包摂したのが信心である。キリストの説教にはこの二つの要素が鮮やかに現われている。
 私はあくまでも善くなりたい。私は私の心の奥に善の種のあるのを信じている。それは造り主が蒔《ま》いたのである。私は真宗の一派の人々のように、人間を徹頭徹尾悪人とするのは真実のように思えない。人間にはどこかに善の素質が備わっている。親鸞がみずからを極重悪人と認めたのもこの素質あればこそである。自分の心を悪のみと宣《の》べるのは、善のみと宣べるのと同じく一種のヒポクリシーである。偽悪である。そのうえ私はかく宣べるのは何者かに対してすまないような気がする。私はかような問題について考えるたびに、なんとなく胸の底で「否定の罪」とでもいうような宗教的な罪の感じがする。およそ存在するものはできるかぎり否定しないのが本道である。つくられたるものの造り主に対する務めである。私の魂ははたして私の私有物であろうか。あるいは神の所有物ではあるまいか。私は魂の深い性質の内には、自分の自由にならない、ある公けなもの、ある普遍なもの、自己意識を越えて能《はたら》く堂々たる力があるような気がする。私た
前へ 次へ
全394ページ中262ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング