机に倚《よ》りかかってぼんやりしてると、過ぎにし旅行のことが影絵のごとく、おぼろに思い浮かべられて、淡い淡い悲哀を覚ゆるのである。恋しき友よ、君はなんという私にとって無くてはならない友であろう。私の覚ゆる悲哀は一には君のために覚ゆる悲哀である。春雨に濡るる若草のごとくに甘い、懐かしい、潤うた悲哀である。君無くば乾《ひ》からびた味の無い砂地のごとき悲哀になっちまう。
 お互いに自重しようね。耽溺、刹那主義、pleasure−hunter なんという嫌な響きであろう。思索だ! 思索だ! 永遠にして崇高なものをぐっと握り締めるまでは、私共のなすべきすべてのことはただ思索あるのみである。

 今日は朝っぱらから心細いことのみに出っくわす。例の瘰癧《るいれき》の男と学校で会って僕が彼に思索せぬことを詰《なじ》ったら彼は次のごとく答えた。
「私は十年経てば死ぬと医者から宣告せられてるのだぜ。過去は暗黒だ。未来は謎だ。短い命を誰がくだらぬ思索なんかに費すものか。私にはそんな余裕はない。私には『生きる』ということが仕事の全部だ。なるほど生きているなと思うには強い、濃《こ》い刺激が要る。それには歓楽に如
前へ 次へ
全394ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング